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コン、コンという優しく無機質なノックの音が響く。嗚呼、最悪の1日が始まる。
そもそもなぜこんなことになってしまったのか。
私は「人の命を救う」という、ありきたりで崇高な目的を持って医師を志したように思う。
安楽死の解禁など、ましてやその担当になるなど、誰が想像できただろう。
一つ、満十八歳以上であること。
一つ、三親等以内に、満十八歳未満の者がいないこと。
一つ、三親等以内に、この安楽死制度を利用した者がいないこと。
この三つが我が国で安楽死が認められる条件となる。
ちなみに家族の同意は必要ない。当然だろう。同意など普通得られるものではないし、仮に得られるのだとしたら、そんなに残酷で悲しい最期はないだろう。
しかし、それよりも。
それよりも今問題なのは、条件の三つ目。
安楽死を利用した者が家族にいれば、その他の者はもう楽に死ねないということ。
人工臓器と自動運転の発達は、病死と事故死の憂いと医師の仕事を容赦なく奪った。
義務教育時点で一人一人の犯罪危険度を数値化、徹底管理する秩序改革は、凶悪犯罪をこの世から消してしまった。
人々にとって、死は遠く、得難いものとなった。永く生きたい訳じゃあない、だけど病気で苦しみたくはない、できるなら健康でいたい、でも…。
高齢化社会に歯止めをかけ、増えすぎた社会保障費の問題を解決するためには安楽死は必要なものだった思う。
それでも人口の急激な減少は避けなければならない。
「家族の中で、楽に死ねるのは一人だけ。」
早い者勝ちとも揶揄されるこの制度の歪み。今まさに私の悩みの種となっているところだ。
手元には2枚の資料。安楽死の利用申請書類。二人の男女のもの。
今日はこの二人の面談を行わなくてはならない。
この二人が他人ならよかった。形式上の質問をし、七日間の猶予期間を与え、薬を投与し、殺せばよい。深入りさえしなければ、私もまた、苦しむことはなにもないのだ。
二人が家族、それも夫婦でなければ。もしくは申請が同日でなければ。
私も苦しむことはなかったのに。
家族構成の欄には、十八歳を迎えた彼らの一人息子の名前がある。おそらく、申請が同日になったのは息子の誕生日を待っていたからだ。
二人の家族が同日に申請している場合、面談担当医が、どちらに利用を許可するのか決めなくてはならない。
「どうぞ、お入りください。」
ドアが、ゆっくりと開いた。
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