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きらぼし
「知ってる?ニートのニーズも多様化してね?オコモリサンなんて呼ばれちゃうのだよ?」
得意気でもあり不満気でもある心地良いソプラノにふと足を止めた。その声は、男を見上げ肩をすくめる若い女のものだった。華奢な後ろ姿の女に対峙するコート姿の男は口角を僅かにあげた。女に比べ幾分年嵩だ。一番上の兄程の年齢くらいだろうか。
「パスポート偽証は犯罪です。偽らず無職と記載したらいいですよ。」
「エイジで怪しまれたあげくジョブなして。別室移動案件だ。」
「日本人女性の年齢不詳は有名ですから疑われませんよ。」
「全てのアンチエイジングビマジョに祟られるよ?うぇ!?」
「見送りはここまででいいですか?フライトまで半日はありますが暇つぶしは出来ますし、、チケットは?」
さらさらと何かを書き足したパスポートを渡しキャリーケースを前に押し出した男は、次いでフライトチケットを求める。片手を腰に当てキャリーケースを受け取った女は閉じたパスポートをめくり呻いた。
「これからよ。だから朝一の送りに文句言わなかったじゃん。なによ?へんなかおしないで。現地空港待ち合わせだし?海外は初じゃないし?なんなら独り旅の方が多いし?」
「そうでした。毎回単独渡航でしたね。」
「毎回単独て。」
まあいいや。空港までありがと。無職って書いたのは許さないよえんぺーに言いつけるし軟禁されて椅子にされちゃえばいい。
別れの挨拶の後半は早口で意味がわからなかったが、追い払う手つきは男を小馬鹿にしていた。男は慇懃な態度から低い声で、タイラに迷惑かけんな、と脅す。現地空港で待つ友人だろうか。
女から離れ此方へ歩いてくる男ははっきりとした顔立ちの、だが日本人らしい美丈夫で、やはり日本人らしく読めない表情をしている。あの恐ろしい声色が気になったが、男を見送る女を見た途端にどうでもよくなった。
雲が切れ、エントランスに差し込む明るい光が磨かれた白い床に反射し振り向いた彼女をキラキラと輝かせる。まるで舞台の一幕の演出のように彼女と私だけが切り離され時が巻き戻ったように錯覚する。彼女は私が若い頃に愛した小鳥の面影を宿していた。
私とすれ違った男が雑踏に消えると、彼女はキョロキョロと上方を見回し、歩き出した。不慣れなキャリーケースを制御出来ずに自身にぶつけている。じゃれつく犬をあしらえない飼い主のようだ。案内を辿ってフライトチケットを買う、のだろう。安全な日本だから良いようなものの、母国なら今頃は手にしたスマホはひったくられ無造作に出し入れした財布とパスポートは肩掛けから抜き取られている。手放した小鳥と無鉄砲で無防備なところも似て見え、助けが必要か?と考えたのは我ながら未練が過ぎた。
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