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父 山田 50歳 夏
桃に叱られたものの、後の祭りだ。
僕の中の一番は桃なのだから仕方がない。
それはどうしても覆せない。
わかっている。
卒業しなければならないのは、寧ろ僕の方なのだということは。
わかっているんだ、頭では。
だが長年愛情を注ぎ続けた結果、僕にはどうしようもないほどに、桃の存在は大きく、深く、強く、根付いていた。
本当は花が咲き実がなる様子を遠くから愛でているくらいの距離でいなければならないことも、わかっているんだ。
わかっていても、ままならないことがあることも、わかっているんだ。
僕が注いできた愛情を他の人に注ぐという行為が、不器用な僕にはできそうにない。
一生ひとりでも平気だ、その覚悟はもう、妻が亡くなったときにできている。
桃の一人暮らしが始まった。
そんなに広くない家が急に広くなった。
冷蔵庫の中身も、あんなにきちんと整理整頓されていたのに、ほぼもぬけの殻だ。
娘は楽しくやっているらしく、こちらに帰ってくる回数も徐々に減っていく。
喜ばしいことなのに寂しさが募る。
とても複雑な心持ちだ。
うっかり桃のアルバムを開いてしまった日は地獄だ。
缶ビール片手に、泣きながら、写真を見てはその頃に思いを馳せる。
高熱を出し、夜間救急に行ったこと。
ピクニックに行ったこと。
お弁当作りが段々上手になったこと。
裁縫針でなんども指を刺したこと。
運動会で1等になったメダルを真っ先に僕にみせにきてくれたこと。
修学旅行に行った桃から毎晩電話で報告があったこと。
味噌煮込みうどんを一緒に食べたこと。
ミートボールを3つも頬張る桃の嬉しそうな顔。
ふと、カレンダーを見ると、明日が妻の命日だった。
僕ももういっそのこと、君のもとへ逝きたいな。
そんなことが頭をよぎる。
桃は立派に巣立ったよ。
君に似て聡明で可愛らしくて性格も優しい子に育ったよ。
桃の母、つまり僕の妻は桜といった。
桜の顔を思い出そうとするが、桃と被ってしまう。
枕元に桜がいた。
こちらを見下ろして微笑んでいる。
さくら、、、。
「パパ!起きてよもう!ソファーで寝てたら風ひいちゃうでしょー!」
桃に叩き起された。
「ママのお墓参り、行くって言ってたのに!もう!ちゃんとしてよー!」
風呂に入り髭を剃り、服を着替える。
その間に桃が部屋を綺麗にしてくれていた。
「先が思いやられちゃうよー」
「彼女作らないならそれはそれでいいけどさー」
「それならそれで、自分のことは自分でちゃんとしてよー」
また叱られてしまった。
電車に揺られて墓参りへ。
お線香と花を手向け、静かに手を合わせる。
桃が急にこう言った。
「ママ、そろそろパパにいい人をぉぉお願いします!」
「誰に何を頼んでんだw」
「だってー」
「ごめんごめん、僕が悪かった」
桃の頭を撫でる。
すっかり大きくなった僕の娘が君と重なる。
「前向きに検討するから、今は許して」
「あのね、、桃はやっぱり、パパが好き」
「うん、ありがとう」
「だから、大好きなパパには幸せになって欲しいの」
「うん、」
「桃に全力で愛情を注いできてくれたことには感謝してるけど」
「うん」
「パパ自身が自立してくれるのも桃への愛情だと思ってるから」
「うん」
「これからは自分のために生きて」
まるでそこに、桜、、君がいて、そう言っているかのように見えた。
「僕は好きで桃を育ててきたし、一緒に成長できたと思ってる」
「桜、、、桃を産んでくれてありがとう」
「桃が幸せであり続けるように、僕も幸せであり続けるよ」
小高い丘からは海が一望できる。
桜、君が大好きだった海だ。
「パパ、久しぶりに、あのチーズケーキが食べたいな」
「うん、買って帰ろうか」
潮風とひぐらしの鳴く声が、夕暮れ前のオレンジ色の海を渡っていった。
終
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