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築年数のいった小さな二階建てアパートの一階。外階段のかげに玄関がある、あまり陽当たりのよくない一室が青年良太の住み処である。
1Kで玄関ドアを開ければすぐキッチン――おそらく台所と呼ぶ方がふさわしい――という間取りのここに初めて通されたのは昨春のこと。そのときの衝撃を杏は今でも鮮明に覚えている。忘れられるわけがない。今のこのご時世にこんな〝アンティーク〟な部屋が存在するのかと、それまで持っていた常識を覆された気分だったから。
四畳半の和室を占領するように正方形のコタツが置かれている。卓上には紙袋がひとつ、それからたくさんの小ぶりの箱やカラフルな包装紙、光沢のあるリボンなどが広げられていた。未開封のものより既に空箱になっているものの方が多い。それらをひとつひとつ取り上げじっと検分していく杏の姿を、良太と郁のふたりは何も言わずに見守っていた。見守るしかなかった。声を掛けるのも恐ろしくて。
最後にパステルピンクの巾着包みを手にした杏は、リボンの箇所に一緒に留められた二つ折りのメッセージカードを開くと眉を顰めた。赤とピンク、二色のハートで可愛く縁取られたそこに綴られた文字はお世辞にも美しいとは言い難かった。そのうえ蛍光色。あり得ない。
もしこれが身内の――例えば郁が書いたものだとしたら「他人に読ませる気があるのか」「これで読んでもらえると思っているのか」と小一時間問い詰めるだろうシロモノだ。けれど実際は名前も顔も知らない赤の他人が書いたものだし、ついでに言えば大人からの贈り物でもない。何より肝心なのはここにいるふたり宛のものではない。
文面をなぞり終えた杏は目頭を押さえ、大きく息をついた。目がチカチカする。
「……言い分は、本当みたいね」
「俺が貰ったんじゃないって信じてくれた? ああよかった」
「ね、言ったでしょ。終わりの会のあとでお兄ちゃんが持ってきたんだよ。……あの、だまって食べちゃったのは、ごめんなさい」
再びへらっと笑みを浮かべた青年とは対照的に、少年はばつの悪い様子で頭を下げた。
杏は可愛らしい贈り物を脇によけるとブラックコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばした。つられるように良太と郁もマグを口に運ぶ。ふたりが飲んでいるのはコーヒーではなくインスタントのミルクティーだ。味の好みといいマグを両手で抱えるように持つ姿勢といい、まるで兄弟みたいだなとぼんやり思う。実際に血の繋がりがあるのは叔母と甥の関係である杏と郁の方なのだけど。
「郁のお兄さん、モテるんだね」
「それよね。ちょっと意外だったわ。愛想は郁の方がいいのよ」
「あ……お兄ちゃんがもらった分、良太にもらってほしいって。お兄ちゃんがチョコきらいなの、杏も知ってるでしょ? すてるのはもったいないし、ぼくが良太のところに行くって言ったらちょうどいいじゃないかって。……あっ、くれた人の名前は全員メモったから、お返しはちゃんとするって言ってた」
不穏な空気を感じ取ったのか郁が慌ててフォローの語を付け足した。
くしゃくしゃに丸められた包装紙を丁寧にたたみ直していた杏は眉間の皺を深くする。全く、一分の隙もない兄である。一体誰から教わったのやら、この分だと〝弟が懇意にしている青年は甘党である〟という情報も確実に把握した上での行動に違いない。
「しっかりしてるんだねぇ」と感心しきりの青年に、少しは見習えとつい念じてしまう杏だ。こういうときテレパシーが使えればいいのにと心底思う。
「小学生でバレンタインかぁ。すごいなぁ。郁は幾つもらったの?」
「ぼく?」
「郁もモテるだろう? もし俺が女だったら間違いなく郁にあげてるよ。今も下駄箱に入れたりするのかな?」
にこにこ続ける良太の周りにまたもや小花が飛んでいる。きょとんと目を丸くする郁の隣で、杏はすかさず自らを抱きしめた。
「ちょっと、なにその気持ち悪い発想……。もしあんたが女でクラスメイトだったら、あたし絶対遠巻きに別行動よ。それか、ゆるふわな性根を叩き直す。覚悟して」
「そんな顔しないでよ、杏。それに俺が言いたいのそこじゃないよ」
「今はね、チョコ持ってきちゃだめなの。ご丁寧に注意プリントまで出るんだから」
今度は青年が目を丸くする番だった。確認するように小さな顔を覗きこめば少年は素直にこっくり頷く。チョコレートを渡したい人は一旦帰宅してから改めて相手の家を訪ねろということらしい。
それじゃこれはと目の前の紙袋を眺めた良太の様子に、郁は前のめりになってマグカップを置いた。
「そうなの、すごく大変だったんだよ! だって先生にバレたらおこられるし、お兄ちゃんにチョコをあげた人たちもおこられるでしょ? セキニン重大だぞってお兄ちゃんが言うから、見つかっちゃったらどうしようって本当にドキドキした!」
そうして思い返せば紙袋は確かになかなかの重装備で良太の元までやってきたのだった。体操服袋に入れてから手さげカバンに入れ、その上から体操服を被せて袋を隠すという手の込みよう。火曜日に持ち帰るものとしては違和感を覚えられても不思議ではないのに、幸い誰にも突っこまれなかったようだ。
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