浅葱色に染まる

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 京都はますます危険になっていた。  幕府が公武合体によって躱そうとしていた批判は、いつまでも攘夷が行われないことで、過激派の活動を煽っていた。  その為、攘夷の期限が設けられ、その決行日である、文久三年五月十日、長州藩は久坂玄瑞に率いられ、下関の海峡を通る米・仏・蘭船を砲撃した。  芹沢らが大和屋を焼いた翌日、朝廷は孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)を発表した為、そちらの方が騒ぎになって、焼失の事件は埋もれてしまった。 「えらいことや」といつもの大丸屋の遣いが萬吉の父の元に走ってきて、瓦版を渡した。  父はいつも通り顔色を変えずに読み通したが、萬吉は側に走り寄って手を差し出した。 「うちにも見せてもらえますか」  大和行幸(やまとぎょうこう)、つまり天皇による攘夷祈願のための神武陵参拝などを企図したもので、(文書)も出されたとのことだ。  これでは佐幕派の会津藩、ひいては浪士組への風当たりも強くなってしまう。  
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