浅葱色に染まる

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 今より十年前。浦賀に黒船が来てから日本は変わった。大丸屋の主人からの遣いが、その報せの瓦版を手に、父の所に駆け込んできた。  萬吉も畑にいて、ちょうど蓼藍(たであい)の作付けが済んだ時だった。  父は慌てて話す大丸屋の声をどこか適当な所で聞いて、彼が持ってきた瓦版に目を通していた。それから「そうどすか」と答えて、紙を返しただけだった。  萬吉は父の様子から、その時は大したことではなかったのかと胸を撫で下ろしたが、その後、攘夷(じょうい)(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想)に靡く世の中に反して、幕府が日米修好通商条約に調印し、大いなる抗争を生んだ。  調印した井伊直弼大老は力で水戸藩を始めとする反幕勢力を抑え込んだ末、三年前に暗殺された。  そんな中、去年は薩摩が異国(英国)との争いに敗れており、この国との力の差はますます明らかになっていった。  そのため、幕府は朝廷と一枚岩になって力を強めた後での攘夷を約束し、公武合体政策が実施された。  孝明天皇の妹が徳川家に嫁ぎ、その一歩が踏み出されると、今度は攘夷激派の長州藩が「幕府のやり方では、異国の言いなりになった清の二の舞になる」と、過激な抗議に走り、その結果、公武合体派の公家や家臣が襲われて、三条河原に毎日首がつるされていた。 「浪士組の一部が京都に残って、会津藩のお預かりになるんやと。松平容保様(京都守護職)に謁見して許可を得たそうや。京都を守るんやと」  萬吉はその知らせに「へえ」と答えただけだった。話に聞いたところ、それは若い浪士の集まりで、自分と年頃もさほど変わらない者たちもいると言う。  大丸屋は攘夷派の高島屋に対抗して幕府側についていた。それで壬生の浪士組は大丸屋に羽織りを注文したのだろう。  そういう経緯(わけ)で、紺屋のうちの屋敷には、貧乏武士の裏地色の麻生地が風にはためいていた。
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