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雪と恋―From:the midwinter and KIYO―
小さな四角い窓の向こうには青空が広がっていた。普段見上げているばかりの冬の厚い綿雲が、自分の足元にあるという光景には、何度この乗り物に乗っても見入ってしまう。
「あなた空ばかり見てるのね」
隣のブース(正しくはなんと呼ぶのかわからないが、座席というのも違う気がするので)からクラリッサがそう声をかけてくる。彼女は飛行機が無事離陸し、速度を安定させるとすぐにその快適なシートの中で本を開いた。スライド式のテーブルを引き寄せ、グラスのシャンパンとナッツまで注文して。
「せっかくこんないい席を取ったんだから、もっと楽しみなさいな」
「そうだね」
僕がそう肩を竦めると、クラリッサはやれやれ、というふうに本の世界へと戻っていった。彼女はいま初めての漱石に取りかかっている。もちろん読んでいるのは『こころ』だ。彼女はそれをアマゾンで注文し、アマゾンはそれをたった一日で彼女の元に届けた。
そしていま僕たちはたった十二時間の旅程で日本へ行こうとしている。たった半日飛行機に乗っているだけで、あの極東の国に行くことができるのだ。
人類の文明の進歩の速さに僕は恐れ入る。終戦後、僕が船でドイツに引き揚げたときには実に三十六日間もの日数がかかったというのに。たった六十数年前にはそれが当たり前だったといのに。
だがそのことをクラリッサの前でぼやくと、年寄りの感傷はやめてちょうだい、と、ぴしゃりと言われてしまった。
僕は改めてこの快適過ぎる席を見渡してみた。快適過ぎて、やはり少し落ち着かない。ここでは座席ごとに映画や音楽を楽しめる。美しく完璧な料理が運ばれても来るし、ベッドにもなり、ベッドにはマッサージ機能までついているのだ。温度に関しては言わずもがな。映画館兼コンサートホール兼レストラン兼リラクゼーションサロン兼ベッドの座席。
やれやれ。
年寄りの感傷だろうが、僕はやはりそう思わずにはいられない。
僕がドイツへ帰国したときの船にはベッド以外なにもなかった。そのベッドも人一人がなんとか横になれる広さのもので、背がある者は膝を折らなければベッドに脚が入りきらなかった。そこには音楽も映画も料理と呼べるようなものもなかった。男ばかりがその船底に敷き詰められた三段ベッドに横たわり、音楽の代わりに酷い鼾か寝言か啜り泣きばかりが聞こえた。見えるのは暗く無機質な船底の天井か、不気味に軋む上段ベッドの裏側だけだった。
でも――と僕は思う。でも、あの狭く男臭いベッドにはいまのような居心地の悪さはなかった。それが年齢のせいなのか状況のちがいなのかはわからない。だが僕は、やはりこのシートの中で自分自身を持て余してしまう。ここにはなんでもあるというのに――。
僕は再び空ばかりを見てしまう。
それでもきっと、日本へ着く頃にはこの席を予約してくれたクラリッサに感謝することになるのだろう。この席では、座り過ぎて尻が痛むことさえ許してはくれないようだから。
*
軽井沢に冬がやって来た。
僕らはコートと手袋、帽子までも着込んで眠るようになる。朝になると家の中に霜が降りている。
リビングに置いただるまストーブが僕らの命を繋ぐ。薪の配給は全く足りず、毎日小枝を探して森を彷徨う。
朝のうちに畑の世話をして、動物の世話をする。
そう、僕らは家畜を飼うことに成功したのだ。僕らというのは僕たち一家とヨハン先生、そしてマイアー家の三家で、僕たちはそれぞれが共同出資して納屋を建て(もちろんヨハン先生が主導して建てた)、その中に農家から物々交換で手に入れたニワトリ三匹と山羊を二匹を飼った。その取引には口のうまいエルマーが活躍をしたので、彼に動物たちの命名権が与えられた。ヨハン先生はいずれ屠殺することになるかもしれないからと命名することに反対したのだが、呼び名がないと困るとか名前がないと可哀想という意見が出て命名することになった。エルマーは三匹のニワトリに「ウメボシ」「メンタイコ」「マグロ」と名付け、雌の山羊にはそれぞれ「ヤー太郎」「メー太郎」という名前を付けた。みんなエルマーに命名権を与えたことを後悔した。エルマーの妹のリーゼルなどは泣いた(「少しも可愛くない」)。でもその名前は気がつくとすっかり定着してしまっていて、僕らは「よしよしウメボシ、いい卵だね」とか「マグロは今日も元気だね」とか「ヤー太郎、よしよし」などと言って可愛がっている。
実際動物たちの力はすごかった。一日に卵一つと山羊のミルク。これがあるかないかでは全くちがった。エルマーはクレソンのスープに溶いた卵が入っているだけでご馳走になると言い、でもいつか卵を一人占めして炊きたてのごはんに乗せて醤油をぶっかけて掻き込みたいなどと言って僕とヨハン先生を閉口させた。不思議なものだが、僕よりも日本暮らしが短いはずのエルマーの方が余程日本の食文化に馴染んでいた。彼は生の卵も恐れなかったし、生魚は好物だった。パンよりも白米を食べたがったし、この世で一番うまいものは熱々のオニギリだと言って譲らなかった。けれどエルマー以外のマイアー家の面々は全くそうではなかったので、彼だけがなぜかその特別な嗜好を持っていたことになる。
午前中いっぱい働いたあとは学校の時間だった。学校といっても正式なものはまだ軽井沢には存在しておらず(のちに僕は永遠に存在していなければよかったのにと思うようになる)、代わりにあったのは牧師であるエルマーの父親が個人的に開いていた謂わば私塾のようなものだった。彼は子どもたちの教育がここで疎かになっていくことを憂いて、自らの住宅を学舎にすることを思いついたのだ。マイアー家の暮らす山荘のリビングに子どもたちが集まって、それぞれに教科書やノートを開く。僕やエルマー、妹のリーゼルの他にも、学校を必要とした家から数人の子どもたちがそこへ通っていた。みんなドイツ系の子たちだったが、ナチに入っているか否かは問われなかった。そもそもマイアー家自体がナチに入っていなかった。彼らが信奉するのはイエス・キリストの他にはいなかったからだ。僕とヨハン先生にはそんなマイアー牧師が尊く見えたが、エルマーは父親のその敬虔さを常に「鈍くさい」と評価していた。彼に言わせればナチだろうがなんだろうが信じているふりでもなんでもして食べ物を多くもらえることの方がより重要なのだった。
アーメンアーメン言ってたってキリストさんは食い物くれねぇんだぜ、というのがエルマーの主張だった。
実際、三人家族の我が家より四人家族であるマイアー家の食事事情は悲惨なものだった。エルマーがもしもあんなふうな神をも恐れぬ少年ではなく、近所の農家でも大人しい振る舞いしかできなかったら、マイアー家は昭和二十年には餓死していたかもしれないとすら思う。エルマーは僕と同じで食べ盛りだったし、リーゼルは生まれながらに病弱で、誰よりも栄養を摂らなければならなかった。しかしどれだけ祈ったところで天から彼らに食べ物が降ってきたりはしなかった。それをいつもなんとかしていたのはエルマーだった。
だがそれぞれに家の事情はあれど、軽井沢でお腹を減らしていない者はいなかった。僕らの隣には常に空腹があり、暇があれば食べ物のことばかり考えた。そんな中で、マイアー牧師が学校を開いてくれたことは僕らにとっては大いなる気散じの役割も果たしてくれた。みんなと集まって目の前の問題に取り組んだり談笑したりしていた方が、空腹を忘れるのに苦労はしなかったから。
平日の三日間、午後になるとマイアー家のリビングにぞろぞろと僕らは集まった。マイアー家のリビングは僕のところよりも手狭だったが、手狭だった分ストーブの熱が部屋中に行き渡りやすく、また人いきれもあって寒さを凌ぎやすかった。
マイアー牧師は温和な人柄で、学校を開くという志も素晴らしいものではあったが、正直言ってあまり人になにかを教えることには向いていなかった。その学校の最年長は僕とエルマーだったが、牧師は僕らと同じ数学の難問に躓いたし、英文法のいくつかは間違っていた。英語ならエルマーの方が正しく筆記できたほどだ。そこで僕が推薦をしてヨハン先生が教師に加わった。それからは牧師は主にリーゼルたち低学年の子たちの面倒を見るようになり、ヨハン先生は僕たち年長組の勉強を見てくれるようになった。
ヨハン先生の授業はとてもわかりやすかった。僕はそこでますます勉強を好きになったが、エルマーはどうも一所にじっとしているということが苦手らしく、すぐに立ち上がったり別のことをしはじめたりして集中力を切らせた。そうするとエルマーの母親が編み物の手を止めて飛んで来た。「まったくあんたって子は!」
エルマーと森で初めて会った日もそうだった。あの日、エルマーは僕の家まで来るとお腹が空いて一歩も動けないと言い出した。それで、エルマーの家にはヨハン先生に行ってもらい、エルマー自身は僕の家でスープとパンを食べた。「突然来たのにすんまへんなあ、おばさん」と僕の母を面食らわせつつ、エルマーはすごい勢いでパンとスープを平らげた。そこへ飛んで来たのがエルマーの母親だった。マイアー夫人は、うちですっかり寛いでいるエルマーの姿を見つけると、挨拶も忘れてその背後に飛びつき、頭を一発平手で打った。「あんたって子は!」。両親に手を上げられたことなどなかった僕は驚いたが、エルマーは慣れているようすで頭を撫でながら平然としていた。「母ちゃん、他人さんの家やで?」。
出されたどんぐりコーヒーをがぶがぶ飲みながら、マイアー夫人が僕の母に愚痴愚痴と語ったところによると、エルマーの尻の据わらなさ、軽い放浪癖はいまにはじまったことではなく、神戸にいた頃は度々学校を抜け出してミッション系のスクールとインターナショナルスクールの二校を退学になったらしい。それで、異例なことだがエルマーは唯一受け入れてくれた日本の国民学校に通っていたのだが、そこでも別に大人しくしていたわけじゃない。教師には度々逆らうし、ふらっといなくなって二日後に帰って来るということもしょっちゅうだった。
神戸から立退かなくてはならなくなって寧ろ安堵したんです。
とマイアー夫人は語った。
だってここに居れば少なくとも森から出られないでしょう?神戸にいた頃はこの子がいつか憲兵に捕まるんじゃないかって気が気じゃなかったもので。
これまでの苦労や不安を洗いざらい吐露するようにマイアー夫人は喋りつづけ、母が勧めるままにどんぐりコーヒーをお代わりした。あのまずいコーヒーを、信じられないことにマイアー夫人は悪くないと思っているようだった。あら奥さま、私こんなに味のあるもの、久々に飲みましたわ、と笑っていたから。
散々飲んで喋って、ヨハン先生からどんぐりコーヒーの粉までもらってから、あの日エルマー母子は夜道を帰って行った。二人の姿が見えなくなると、
似た者親子ね、
と母は疲れた声で呟いた。
エルマーは確かに気忙しい性格をしていた。が、頭の方は決して悪くはなかった。彼はちゃんと言われたことを覚えていたし、言語能力も高かった。走るのだって速かったし、なにより物怖じしないので興味のある分野には自らどんどんと進んでいく強さもあった。自分が慎重過ぎる性格だとわかっていた僕には、そんなエルマーが少し眩しくさえ見えたほどだ。
僕らは傍目から見ても正反対の性格をしていただろう。けれど、だからこそだったのかもしれないが、僕らはたぶんお互いの中の〝ないもの〟を補うように仲良くなっていった。
エルマーは僕にとって初めての親友だった。向こうがどう思っていたかは知らないが、少なくとも僕にとってはそうだった。
一年で一番楽しみなクリスマスの日が近づいていた。しかし誰も浮かれた気分に浸るような余裕を持ってはいなかった。僕らは常時付き纏う寒さと空腹に戦っていた。
日を追うごとに軽井沢には人が増えていた。ドイツ人の他にはイギリス人、フランス人、白系ロシア人、中国人、ユダヤ人、スイスやアルゼンチンの中立国、無国籍の人々(主に欧州から命からがらに亡命してきたユダヤの人々、タタール人)、他にも富裕層の日本人が、各地からこの地へ転居してきた。僕たちは比較的早い時期の転居をしたことを感謝するようになる。いまや住居は逼迫状態にあり、何人もの家族が一つの山荘や施設で暮らすのが当たり前になっていた。
人が増えたことで深刻になったのは住居だけではなかった。それに伴う食糧、一番は暖を取るための薪の供給が特に深刻になり、大人たちは会えば薪の相談ばかりするようになっていた。
「そろそろどうにかしないといけませんね」
とヨハン先生は言ったが、なにをどうしたらいいのかは誰も知らなかった。
食糧事情も深刻だった。冬に伴い森の中にも食べられる物はどんどん減っていった。木の実もなく、食べるなと言われてはいたがキノコも見かけなくなってしまった。あるのはあの忌々しいクレソンだけで、有難いやら残念やらそれはどんなに気温が下がろうと枯れたりはしなかった。エルマーは舌打ちしつつクレソンを摘んだ。
朝、動物の世話をしていると、エルマーはときどきウメボシをじぃっと見ることがあった。そして、
「うまそうだな、ウメボシ」
とぽつりと呟く。ウメボシには申し訳ないが、僕も同感だった。三匹の中でも一番肥ったウメボシは、毎日僕らの食欲を刺激した。だが殺せば卵が採れなくなる。
「ああ肉食いてぇなあ!」
納屋の中で、冬の森の中で、エルマーは毎日そう叫んだ。
そんな毎日の中で、僕らの唯一の贅沢はお風呂だった。
ヨハン先生の家にもマイアー家にも風呂はなかったが、うちには五右衛門風呂があった。そこで週に一度、僕ら三家は薪をそれぞれに出し合って入浴するのが習慣になった。組み合わせは女性陣(母、マイアー夫人、リーゼル)、男性陣(父、マイアー牧師)、若者組(僕、エルマー、ヨハン先生)で、大抵の場合は女性陣に一番風呂を譲り、あとは男性陣と若者組が前後して入った。女性が最後にしてという日は誰かが月経の日だという暗黙の了解があった。
僕らの順番は大抵最後で、湯も少なくなっていたが、三人で入れば肩まで湯に浸かることができた。誰も順番を待っていないのもあって、僕らは必ず長風呂をした。寒さを感じないというのは実に幸福なことだった。僕らは一週間分の疲れや寒さをそこで癒し、ヨハン先生が配給品のラードから作った石鹸で頭と身体を洗った。身体があたたまると、心もあたたまって、僕らは風呂の中でよくばか話をした。
「なあヨハン先生、どうやったらそんなチンコ大きくなんの?」
ある日、エルマーが冗談っぽく突然そんなことを言い出したことがあった。なに言ってんだよ、と僕はすぐにエルマーを嗜めたが、内心ではちょっとそのこたえを知りたくはあった。まだ少年だった僕たちに比べ、ヨハン先生の物はその……、とても立派に見えたから。
僕はてっきりヨハン先生は笑って誤魔化すか適当になにか言ってはぐらかすものと思っていた。だが端正な美しい顔をしたその先生は、風呂の縁に肘をついて薔薇色なった片頬を乗せ、どこか秘密めいた妖艶な微笑みを浮かべると、ただ一言、無垢な少年である僕たちにアドバイスした。
「そりゃあ、たくさん使うことだよ」
そのこたえには、さすがのエルマーも僕も黙って目を見開くことしかできなかった。ヨハン先生はすぐにイタズラっぽい笑みを浮かべると、
「ま、そのうち経験するだろうから大丈夫だよ」
と、指を弾いて固まる僕らにお湯を浴びせた。
「そのときが来たら、大きさなんて別に重要じゃないってわかるしね」
「そんなもん?大きいに越したことないと思うんだけどなあ」
尚も言うエルマーに、
「じゃあ割礼してみたら?」
とヨハン先生は言った。
「割礼ってあの、ユダヤがやってる……?」
「そう。割礼すると、やっぱり大きく見えるらしいよ。包皮を切るわけだからね」
想像して、僕とエルマーは短く悲鳴をあげた。
「絶対痛いやつじゃん!ユダ公ってそんなことしてんの?」
「ユダ公だなんて、言わないよ。まあほとんど赤ん坊のときにやるから、痛みの記憶は残らないんだろうけどね」
「でも痛そう…」
「まあ痛いだろうね」
「でも大きく見えるのか…」
まだ未練がありそうなエルマーに、僕もヨハン先生もちょっと呆れた。
「やるのは自由だけど、おすすめはしないよ。痛いだろうし、それに割礼したそれを万が一ゲシュタポに見られたらどうなるか、わかるだろ?」
「俺ん家プロテスタントだよ?親父は牧師だし」
「いざ捕まったらどうするかを決めるのは僕じゃないからね」
とヨハン先生は言った。
「まあ好きにしなよ。なんてたって、そいつは君のチンコだ」
言われて、エルマーはお湯の中で揺れる自分のそれを、真剣にじっと見つめていた。
僕らはまだ恋を知らなかった。
恋よりもまずは日々食うことに腐心していなければならなかったし、暇があれば浮かんで来るのは食べ物のことばかりだった。
でも、ときどき自分の股間にぶら下がるその奇妙な器官について全く考えないわけではなかった。それがなんのためについているかはもう知っていたし、いつかはそれを使うときが来ることも、まだ漠然とではあるが確定していた。
そしてそいつはときどき、僕の意思を離れて勝手に膨らんだり縮んだりをした。そういうやつだとわかってはいたが、僕はときどきそいつの所業に困り、不安にもさせられた。なんといっても、欲望に打ち負かされたあとの空しさは堪らまらなかった。
それに僕は、自分自身にも植え付けられたその一連の生物的な本能に、微かな違和感があるのをちゃんと感じ取ってもいたのだ。
エルマーもそうなの?
そう訊ねてみようかと思ったこともある。けれど自分にさえはっきりとは掴めない違和感の正体について、エルマーにはどんなふうに相談をしたらいいのかはわからなかった。それに僕はエルマーが、そのことを両親やその他の人々に喋ってしまうことをなによりも恐れた。
僕は臆病な人間だった。
エルマーの傍で、僕はときどき自分のことをそんなふうに卑下するようになっていた。
軽井沢での初めてのクリスマスを、僕らは工夫して乗り切った。
僅かに持って来ていたクリスマスの飾りを僕とエルマーとリーゼルで飾り、足りない分は森で調達してきたり作ったりした。何日も前から食べ物を節約して、母とマイアー夫人はありったけのごちそうを作った。殊に配給品のバターと小麦粉、ヤー太郎メー太郎のミルクから作ったクリームまでもついたケーキが出て来たときには大人たちも歓声を上げていた。イチゴはなかったが、代わりにブルーベリーよりも一回り大きな実をつける浅間ベリーがクリームの上に乗っていた。
だが、ケーキよりもさらにみんなを喜ばせたのはヨハン先生からの贈り物だった。ヨハン先生はその日、クリスマスのプレゼントとして肉を調達してきたのだ。兎の肉で、僕の家にやって来たときにはもうきれいに処理がされていた。どうやって手に入れたのか訊くと、森に罠を仕掛けていたのだと言う。それがちょうどクリスマスの日に恵みをもたらしてくれたのだ。マイアー牧師はこれを神からの贈り物だとして感謝の祈りを捧げた。
肉をどうするか僕らは真剣に話し合い、協議の末にシチューにして食べることが決まった。シチューならばスープにまで肉の成分が滲み出る。僕らは久々の肉料理をできるだけ多く味わいたかったのだ。
父の伴奏で讃美歌を歌ったあとは、僕らはささやかな贈り物を交換し合った。僕はみんなの肖像画を描き、エルマーは手作りのすごろくと福笑いを作っていた。リーゼルはかわいい歌と踊りを披露してくれた。
僕らはごちそうを食べ、大人たちはめずらしく配給品のお酒を飲み、トランプをした。僕とエルマーとリーゼル、それにヨハン先生はエルマーの手作りすごろくで遊んだ。リーゼルは幼いので僕とチームを組んだ。弟妹のいなかった僕にとって、リーゼルはめずらしくて可愛い存在だった。エルマーが意地悪ばかりしていたのもあるだろうが、リーゼルの方でも僕を慕ってくれていた。オスカーが本当のお兄ちゃんだったらいいのに、という言葉は度々その小さな唇から発せられて、僕をその都度微笑ませたものだ。
クリスマスのその一日だけ、僕らは寒さも空腹も戦争も忘れることにした。食べて、遊んで、あとは眠るだけ。数年前だったら考えられないような質素なクリスマスだったが、僕らはそれでもその日一日たっぷりと贅沢をしたような満足感に満たされて、眠りにつくことができた。
クリスマスが終わるとあっという間に新年がやって来た。僕はエルマーに誘われて、日本式に初日の出を拝みに行った。寒くて、なんだって朝早くからわざわざ太陽が昇るのを見なくちゃいけないのか僕は途中で厭になったのだが、いざ遠く稜線の向こうから太陽の光が射しはじめて、うっすらと雪の積もった森に光が入ると、僕の心は静かに、その当たり前のように繰り返されている自然の神秘に畏敬するように震えた。
エルマーは太陽に向かって手を合わせた。僕も模倣して手を合わせた。
日本人のほとんどがなぜ「八百万の神」などという不思議な信仰心を持っているのか、僕はこのとき初めて、ほんの少しではあったが理解することができた。
目を閉じて手を合わせている間、確かに森のそこら中に神がいた。
僕らは軽井沢で1944年を迎えた。
年が開けて間もなく、いよいよこれまでも深刻だった薪の供給問題についに対策が講じられることになった。ドイツ大使館が軽井沢にいるドイツ人たちのために森を一つ丸ごと買い上げたのだ。これまで、薪は配給の他には日本の強制労働の伐採で余る枝、あとは個々人が森で小枝を拾うか農家で物々交換してくるかだったのだが、これからはその森で薪を切り出せるようになった。
それで、最初の日には軽井沢中のドイツ人がその森に集まって、共同作業での大がかりな伐採が行われることになった。僕もエルマーも、その森に集まったドイツ人の多さにびっくりした。優に百五十人は越えていただろう。
「こんなにいたのかよ」
とエルマーは言ったが、僕も全く同感だった。
作業は主に、成人男性たちが木を斬り倒し、丸太を斧で割る。女性や子どもたちは枝を鉈で分解したり、切り出された薪を縄で縛る。僕やエルマーのような少年は鉈係に振り分けられた。
「俺も斧がよかったな」
エルマーは不満げに言ったが、実際大人たちが悪戦苦闘しているのを見ると、
「こっちでラッキーだったな」
と、こっそり僕に舌を見せた。
森が買い上げられ、ずっと付き纏っていた薪の心配が減った僕らだったが、実際森で伐採をするというのも決して楽なことではなかった。僕らは誰も樵の経験などなかったし、軽井沢に集められていたドイツ人のほとんどは肉体労働とは無縁の生活をしていた人たちばかりだったのだ。父のような音楽家、牧師の他は教員や医師やビジネスマン、研究者や外交官ばかりで、誰も斧で大木を斬り倒した経験などなかった。ほとんどの男性が手探りで試行錯誤しながらなんとか作業をする中、しかし一人きびきびと指示を出しながら動いていたのはヨハン先生だった。
彼は誰よりも正確に斧を振るい、幹に楔を打ち込み、ロープをかけ、合図を出して木を思い通りの方向に倒すと、その太い幹を斧で解体し、さらにそれを分解した。僕の父やマイアー牧師がおっかなびっくり斧で不器用に薪を切り出すのとちがい、ヨハン先生は振り下ろした一発を決して外さなかった。雪の中は寒かったが、ヨハン先生はコートを脱ぎ、服の袖を肘まで折って、その逞しい腕を露にしていた。額に浮かんだ汗を手で拭い、誰かに話しかけられるとにこにこと爽やかな笑顔を見せた。
僕とエルマーは鉈を扱いながら、ときどき呆然とヨハン先生を見た。
「ヨハン先生って、なんでもできるよな」
とエルマーが言い、これには僕も、
「うん」
とこたえるしかなかった。
「見ろよ」
エルマーは首でちょっと背後を示した。そこでは女性たちが昼食のために大鍋での調理をしていて、何人かの人々は僕らのように作業しながら呆然とヨハン先生を見つめており、何人かはこそこそとヨハン先生の噂話をしているようすだった。
「罪深いよな、ヨハン先生も」
「うん」
「おまえさ、恋ってしたことある?」
「ないよ。エルマーは?」
「あるわけないだろ。しかもこんな森に閉じ込められてんのに」
「そうだよね」
「あの女たちの何人かとさ、ヨハン先生はやろうと思えばやれるんだろうな、あのデカいやつで」
「そんな言い方やめろよ。それにあの人たち、ほとんど蘭印の人たちだろ?向こうにまだ旦那さんがいるんだ」
そこで一塊になっているのが蘭印(オランダ領インドネシア)から引き揚げてきたドイツ人女性たちだということは聞き及んでいた。彼女たちはまだ夫を現地に残し、いまは軽井沢のホテルの一つで集団生活をしているのだった。
「ここにいないんじゃ、婚姻なんてどれだけ奥さんたちの楔になるかわかりゃしねーよ。しかもあんな独身男がいるとわかった日には」
エルマーは枝を縄で纏めながら、顎でヨハン先生を示す。ヨハン先生は斧を振り下ろし、薪が一発で割れる気持ちのいい音が森に響いた。そのあとの女性たちのため息。
「全く罪深いよ、あの人は」
昼になると大鍋で作ったスープと蒸したジャガイモがそれぞれに配られた。たっぷりと作業をしたあと、雪原の中で食べるそれはいつもよりもずっとあたたかくおいしく感じられて、僕もエルマーもお代わりがあるのかどうかが一口目から気がかりだった。
僕らが食べはじめてすぐ、「よう」とヨハン先生が自分のお椀を抱えて僕らの隣にやって来た。
「先生、今日でますますモテるようになるね」
とエルマーが言うと、ヨハン先生ははぐらかしなのか本気なのか、
「なんのことだい?」
と笑った。
「先生はこの森の悪魔だよ」
とエルマーが言うと、
「へえ?じゃあ天使はどこだろ」
と嘯く。
すると突然一人の女性が僕らの前に現れて言った。
「あら、天使をお探しかしら?」
呆気に取られる僕らに、その人はさらにつづけて言った。
「お隣が空いてるみたいね?失礼」
そう言って、堂々とヨハン先生の隣に、――半ばくっつくようにして座った。
その人が蘭印からの引き揚げ婦女子の一人であることは僕もエルマーも察していた。なぜなら作業中、彼女は隙あらば怠けて他の仲間の女性たちから度々注意を受けていたからだ。名前がマルガレーテであることもすでに知っていた。何度もそう呼ばれて怒鳴られていたから。
「天使からのプレゼントよ、樵さん」
彼女はそう言って、自分のジャガイモを一つヨハン先生の手に押しつけたが、ジャガイモをあげることよりヨハン先生の手に触れることの方が目的のように見えた。
「頂けませんよ、ご婦人」
ヨハン先生は丁寧に言って返そうとしたが、彼女は聞いていないのかどうでもいいのか、
「マルガレーテよ」
としか言わなかった。蠱惑的な微笑みつきで。
「ご婦人から物は頂けませんよ」
なおも断る先生に、
「いいの」
とマルガレーテさんは言って、今度はぎゅっと先生の手を握った。
「あなたは一番働いたんだから、より多く食べるべきなの。そうでしょ?」
「ですが――」
「先生、その芋いらねぇんなら俺にちょうだいよ」
先生が困っているのを察してか、単に物欲しさからかエルマーは身を乗り出した。するとマルガレーテさんの顔からすっと笑顔が消え、
「てめえにやるなんて一言も言ってねーだろ、クソガキが」
と、先程よりも2オクターブほど低い声でエルマーをいなした。僕はその豹変に身を固くしたが、エルマーは引かなかった。
「なに言ってんだよ、おばさん。この芋はもう先生にあげたんだから先生のもんだろ?だから俺は先生に許可取ってんだよ」
「あ?なに生意気言ってんだこのソバカス小僧が」
「あの、せっかくなのでこの子たちにあげてもよろしいですか?」
先生が二人の間に入るようにしてそう訊ねると、マルガレーテさんは最初の笑顔を取り戻した。
「あら、もちろんよ。あなたの好きにして?」
「ありがとうございます、ご婦人」
「マルガレーテって呼んでくださる?」
固まる僕らに、ヨハン先生は芋を半分に割って僕らに差し出した。すかさずエルマーが大きい方を取った。
「ありがと、おばさん」
エルマーは礼を言って見せつけるように一口で芋を食べた。
「ありがとうございます」
と僕も頭を下げた。
マルガレーテさんは虫けらを見るような目で僕らを見ていたが、ヨハン先生を見るときはぱっと表情が変わった。僕は横浜の中華街で見た「変面」の芸を思い出した。
食事の間中、マルガレーテさんはべたべたと先生にくっついて話しかけつづけ、先生も礼儀正しくそれに応じていた。僕はふと視線を感じてうしろを振り返った。すると森中の女性たちが殺意の籠った目でマルガレーテさんを見ていた。そこには僕の母もマイアー夫人もいた。一人の敵を見つけたときの女性たちが無言のうちに作り上げる徒党の、なんと強く恐ろしいことだろう。
僕は別の寒気を感じながら、冷めないうちにスープを飲み干した。
ちなみにお代わりはなかった。
昼食が終わると、僕らは再び森の樵に戻った。マルガレーテさんも炊事仕事に戻って行き(「じゃあまたね、ヨハン(投げキス)」)、三人だけになるとすぐにエルマーが面白そうに先生の腕を肘で小突いた。
「先生、とんでもない女に目を付けられたね」
「うん?からかわれただけだよ」
「そんなわけないじゃん!あのおばさん、性格はキツそうだったけど、ここにいるドイツ人の中じゃ一番美人だよ、おっぱいも大きいし、ラッキーだね、先生」
「彼女既婚者だよ」
呆れるように先生は言った。
「それにおばさんだなんて歳じゃないよ、まだ二十代だろうし。それからね、エルマー」
「なに?」
「女性の胸元をあんまりじろじろ見ないよ?」
「えっ!バレてた?」
「バレバレだよ」
「えーっ、だけどあんな林檎が入ってるみたいな胸してたら見ちゃうよ。なあ?」
エルマーは僕に同意を求めたが、マルガレーテさんの胸なんか見なかった僕は首を振った。
「ばか正直だね、エルマーは」
と先生は笑う。
エルマーはしかし全く懲りたようすもなく、
「ねえ先生、あの人、先生が相手なら絶対にやらせてくれるんじゃないの?」
などと言う。
「別にやらないよ」
呆れ果てたような目をして、先生はそう返事をした。
「タダなのに?」
「タダなわけないだろ?そういう場合ってね、その場でお金は取られなくても、あとから必ず代償を払うことになるんだよ?君は特によーく覚えておいた方がいい。女性に無償でなにかを寄越せって要求するのはあとから高くつく行為だってことをね」
「そうなの?俺よくわかんねえや」
「一度痛い目見りゃわかるよ」
「先生は痛い目見たことあるの?」
「まさか。痛い目に合ってるやつらならうんと見てきたけどね。君がその一人にならないことを願うよ」
わかっているのかいないのか、へえ、とエルマーはにやにや笑い、
「マルガレーテさんみたいなの、先生は好みじゃないの?」
と訊く。
「好みとかそうじゃないとか以前の問題だよ。既婚者なんだから」
「なんだよー、だったら先生はどんな人が好きなの?教えてよ」
「僕が好きなのは物静かで無口で凛とした人だよ」
と先生は真面目な顔でこたえる。
「あと贅沢を言うなら、美しいピアノを奏でられる人だと、最高かな?」
僕は、先生がいつだったか「忘れられない人がいるんだ」と言っていたのを思い出した。その人はそういう人だったのだろうか。無口で物静かで、凛として――。それから僕はマルガレーテさんのことを考えた。同じことを考えていたらしいエルマーが、
「あのおばさんには永久に無理だな」
と、呟いた。
冬の早い夕暮れが迫るまで、僕らは精一杯作業をした。鉈を使うのにも飽きてきた頃、ヨハン先生が僕らを呼んで斧の使い方を講義してくれた。鉈や縄を散々触ったあとというのもあったが、いざやってみると斧で薪を割るという作業は実に難しかった。僕らはヨハン先生のように、一発できれいに偏りなく割るということができなかった。必ず偏りが出て、歪な薪ばかりを作ったし、まず振り下ろした斧の刃がまっすぐ入らなかった。それでも僕もエルマーも汗だくになりながら挑戦した。最早斧を扱うというのがここでは立派な男になった証になっていたからだ。
もう腕がしばらくは上がりそうもないと思えるまでやったあとで、僕らは地面に直接腰を降ろして休憩をした。
「なんだよ、あいつらも見るだけじゃなくて手伝えってんだよ」
荒く息をしながらエルマーがぼやいた先を見ると、森の奥の木々の間に何人かの憲兵と特高が僕らを見張っているらしいのが見えた。軽井沢に人が増えるのに伴い、憲兵と特高の数も増えていた。どこかの誰かが彼らに連行されたり、家宅捜査を受けると、それはすぐに森中の噂になった。
「手伝ってくれるわけないだろ」
と僕は言った。彼らはみな無愛想で、自分の用事があるとき以外はすれ違っても話しかけても来ない。「なにか変わったことはないか?」「怪しいやつはいないか?」と威圧的に訊くのが彼らの挨拶だ。
「おまえさ、あのときの憲兵、あれから見かける?」
エルマーが訊いて、僕はすぐに誰のことかわかった。僕らが出会った日に、道案内してくれた長身の憲兵のことだろう。
「一度も見ない」
「俺も。あいつ、なんだったんだろう?俺たちの名前も知ってたし、でもあれ以来近所で見かけることもないし」
「どこか別の場所に行ったんじゃないの?軽井沢じゃないとこ」
「彼ならちゃんと軽井沢にいるよ」
と言ったのはヨハン先生だった。
「毎日僕たちの近所の見廻りもしてるしね」
「えっ、そうなの?俺、全く見ないけど」
「彼はうまく隠れてやってるからね。あんなふうに」
と、ヨハン先生は視線だけでこっちを見ている憲兵たちを示した。
「あからさまな監視をしないだけだよ。泥棒だって、わざわざ警察の目があるところで盗みをしたりしないだろ?隠れて監視しないと、人間のふりをした悪魔は尻尾を見せたりしないからね」
「えっ、誰か取っ捕まえる気なの?あの憲兵さん」
「そのために彼らはいるんだよ」
尤もなことを、先生は言った。
「彼が僕たちの名前を知っていたのも当然だよ。自分の監視対象くらい正確に把握しておかないと」
先生は斧を振り上げ、なにかを断罪するかのように振り下ろして薪を割った。
「まあ僕が彼の立場でも、同じようにするだろうね」
薪を手に入れたあとも、軽井沢での厳しい冬はつづいた。僕たちはヨハン先生に言われて、冬の初めにはボロ布を水道管に巻いて凍結や破裂を防いでいた。しかしある日とうとう、それでも水道管が凍りついてしまい、朝に水が出ないという事態が訪れた。そうなれば水を得るために僕らは早朝から愛宕山に登るしかなかった。その山の井戸でバケツいっぱいに水を汲み、家に運んで水桶に溜め、また空になったバケツを持って雪道を歩いて山を登る。体力も気力も、朝のうちに尽きてしまいそうな日々がつづいた。マイアー牧師が下山中に転び、足首を捻挫してしばらく動けなくなるという事態も起こり(「情けねえ」とエルマーは顔を覆い、マイアー家の減ってしまった男手はヨハン先生が補った)、リーゼルは風邪を引いて寝込んでばかりいた(栄養が足りないのでなかなか治らない)。
いまや僕らの手はみんなぼろぼろだった。寒さと慣れない労働、充分でない食事のために傷と皹だらけになり、母は父の手を握っては涙ぐんだ。「あなたの手は音楽を奏でるためにあるのに」。
ヨハン先生が配給品のラードからハンドクリームのようなものを作ってくれて、僕らはその貴重品を眠る前にほんの少しだけ、荒れた手に薄く伸ばして使った。しかし手を休める間はなかったので、傷や皹が消えることはなかった。
そんな日々の中で、父がある日嬉しそうな顔で朗報を持って帰った。なんとこの軽井沢で、コンサートを開くのだと言う。
あの森の伐採の日、父は日本各地からここ軽井沢に集められたドイツ人の音楽家たちと親しくなり、その人たちとコンサートを開こうと密かに計画を練っていたのだった。その目処がようやくついたという報告に、僕も母も久々に心から笑顔になってしまった。なによりもそれが父にとってどんなに喜ばしいことだろうかと考えると、僕も母も目が潤んでくるのを止められなかった。
「コンサートなんて素敵!一体いつぶりかしら。どこでやることになるの?やっぱりカルイザワ・ホールか万平ホテルかしら?」
興奮ぎみに問いかける母に、父は首を振って、しかし笑顔でこたえた。
「野外でやるんだよ。ユニオン教会前の、森の広場でね」
二月の終わりの土曜日、僕らは朝からコンサートの準備に追われた。主に即席楽団の家族と有志たちで広場の雪を均し、教会から借りた椅子を高齢者やお偉いさんたちのために並べる。ドラム缶二個に薪を詰めてストーブにし、女性たちは大鍋でキャベツとジャガイモだけのポトフを作った。
そしてうちの山荘からその広場まで、ピアノを運ぶという大仕事があった。それには僕とエルマーとヨハン先生の他に、有志の男性二人が駆り出された。僕らは足並みを揃えて雪の積もった道をピアノを持ち上げながら進んだ。有志の男性二人はどうやらヨハン先生への対抗意識からその役を買って出たようで、二人はピアノを運びながら始終ヨハン先生に「調子に乗るなよ色男」とか「マルガレーテはおまえのもんじゃないぞ」とか言っていた。もちろん先生は全く相手にせず、いつものようににこにこと笑って、「ご忠告どうも」とか「ええ知ってます。彼女は旦那さんのものですしね」とか言って二人の神経を逆撫でつづけた。最初は威勢がよかった二人も、疲労と敗北感から終いには無口になった。運び終えたあとに僕らが真っ先に考えたことは、帰りにもまた同じ労働が待っているのか、ということだった。
しかし、ようやく楽器が揃ったあとですぐに今日の即席楽団がチューニングをはじめると、僕らは疲労も忘れてその姿に見入ってしまった。これから音楽祭がはじまるのだと思うと、久々に嬉しさで胸がどきどきした。それは他のドイツ人たちも同じだったようで、まだ開演時間には早いというのに、すでに多くのドイツ人が広場に集まってそれぞれの楽器の立てる音に耳を澄ませていた。みんなコートを着込み、中には肩から毛布をかけて立っている人もいた。
「リーゼル、残念だったね」
と僕は言った。
リーゼルの風邪はよくならず、咳もひどかったから今日は牧師と留守番することになったのだ。この日を楽しみにしていたというのに。
「あいつは冬の間中風邪引いてんだよ。別にここに来る前からそうだったし」
「行きたいって泣いてたろ?」
「風邪引くやつが悪いんだよ」
「そんなふうに言うなよ」
僕は嗜めたが、エルマーは憮然として返事もしなかった。リーゼルが不憫だったので、僕はあとで今日のコンサートのようすを絵に描いて、あの小さな妹にあげようと思った。
「だいたいなんでこの寒い中、野外でやるんだ?おまえの親父は狂ってるよ」
「父さんは、野外でやるから意味があるって言ってたよ。やってみればその理由がちゃんとわかるって」
「はん。楽団の指がかじかんで失敗に終わらないことを祈るよ」
厭味を言い終わると、エルマーは気遣わしげに大鍋の方を見て、切なげに呟いた。
「お代わり、今日はあるといいな」
みんな早くから集まったおかげで、コンサートは定刻どおりにはじまった。最初にコンダクターが挨拶をし、次にあの悪名高いヨーゼフ・マイジンガーの手先であるアラリッヒ・モザナーが挨拶をした。彼が人々の前に立って例の敬礼をすると、大人たちのほとんども同じ敬礼を返した。
ゲシュタポが。
と、エルマーが僕の耳だけに囁いた。
モザナーがここ軽井沢におけるゲシュタポの頭領であることを知らない者は最早いなかった。 彼に目をつけられることは、ここでは死を意味する。
モザナーは寒さに耐える僕らを弄ぶように長々と愛国的なスピーチを述べ、それがようやく終わったかと思うと、まずはナチス党歌の『旗を掲げよ』を歌おうと言い出して、一部の人を除いた僕たちを心底うんざりさせた(さすが人の気持ちの考えれない仕事で要職に就いているだけはある)。
歌が終わると、いよいよ本当にコンサートのはじまりだった。コンダクターが僕たちの方を向いて頭を下げ、演目を告げる。
「ヴィヴァルディ、『四季』」
何十年も経ったあとも、僕の耳はその『冬』からはじまった演奏を忘れなかった。
寒空の下、永く厳しい冬を穿つように響き渡るヴァイオリンの音色は、モザナーの演説なんかよりずっとあのときの僕たちを勇気づけてくれた。
なんせあのエルマーがずっとそこから動かず、黙って音楽を聴いていたのだから、それだけでも大した偉業と言えるだろう。
そしてふとうしろを振り返った僕は、父がなぜこのコンサートを野外ですることに拘ったのかの理由がわかった。
広場から少し離れた場所にはいつの間にか、ドイツ人ではないと思われる人々がこの日の音楽を聴こうと群れ集まっていたのだ。
音楽に国境はない。
父たち音楽家は、きっとそのことをこの場所で証明したかったのだと思う。音楽はすべての人々のために、平等にあるべきだということを。
それから僕はその群れの中に、あの日以来見かけなかった例の憲兵がいることに気づいた。
彼はやはり軍服姿で、 隙のない仁王立ちをしてまっすぐにこちらを見つめていた。彼は仕事のためにそこにいたのかもしれない。でも僕には、彼が全身で音楽を聴いているように見えた。まるで音を吸い込むみたいに、真剣に。
あの冬の雪の中、もしかすると彼もその音楽に救われていた、一人だったのかもしれない。
***
『某月某日冬
近頃ヤーコフが毎日訪ねて来る。
私のダモイが決まってから、毎日である。
特になにを言うでもなく隣に来て、帰り際になってようやく喋る。
「本当に帰っちゃうの?」
と訊くから
「帰る」
とこたえてやる。
するとあの灰色の目で人の顔をじぃっと見てくる。
指で突いて目玉を抉り出してやりたいのを我慢しながら
「おやすみ」
と言うと、
「おやすみ」
と渋々帰ってゆく。
ユーリがもしもここにいたならヤーコフはとっくに死んでいたであろう。
命拾いしたものだ。
………
某月某日冬
ヤーコフ今日もあらはれる。
しかし今日は要件を携えて来た。
日本人女性の中に一人頑として帰国を拒否する者がおり説得してほしいとのこと。
望むなら残らせてやればいいものを、それは承服しかねるようす。
話をしたが女はどこまでも頑なだった。
終いにわあわあ泣き出して日本に帰すくらいなら殺してくれろと喚き散らし、暴れる。
埒が明かずたゞ見守る。
ヤーコフは女の泣き顔を見て腹を抱えて笑っていた。
部下のモンゴル人も笑っていた。
甚だ耳障りな二重奏だった。
ユーリがいたら二人の喉をナイフで切り裂いたであろう。
命拾いしたものだ。
………
某月某日冬
この間の女が訪ねて来て謎の謝罪を受ける。
将校さんは日本に戻ったらどうするのか、などと訊ねるので、墓参りに行くとこたへると女はまた泣いた。
「私もそうだよ。帰ったってもう誰もいないんだ」
気の済むまで泣いておればいいと思い、放っておく。
泣き止むと女は煙草をねだって帰って行った。あれならきっとここに残っても大丈夫であろう。
日本に着いたらまずは小堀の家族に会わなければならないだろう。
小堀が戦死した通知が届いているか、それが気がかりである。
小堀には悪いことをしたと思う。
あのまま軽井沢に残ればよかったものを、奴は私に付いて来た。さながら孔犬のように。
挙げ句一発の弾を放つこともなく死んでしまった小堀。
立派な最期だったと言って小堀の家族は果たして喜ぶものだろうか。それとも、そんな時代はもう過去のものとなったのだろうか。
故郷は遠く、かつての故国や今何処。
………
某月某日冬
ヤーコフまた訪ねて来て、日本語で「愛してる」はどんな言葉かなどと訊く。
「地獄に堕ちろ」
だと教えてやると、奴は信じて何度も練習していた。
ヂゴクニオチロヂゴクニオチロヂゴクニオチロ………
久々に愉快な気持ちで眠りに着く。
………』
***
軽井沢に春がやって来た。
ある日唐突に、僕らはそれがそこにあることに気づいた。雪が融け、陽の出ている時間が長くなり、凍った地面の下から新しい芽が顔を出しはじめた。薪の消費量が減り、水道管の凍結もなくなって、朝から水汲みに山を登ることもなくなった。
僕らは冬を乗り越えたのだ。
だが完全な春がやって来る前に、一つかなしい出来事があった。山羊のメー太郎が死んでしまったのだ。
ある朝、いつものように僕らが納屋に行くと、メー太郎が柵の隙間に顔を突っ込んだ状態で息も絶え絶えになっていた。狭まったそこに首が挟まって抜けなくなったのだった。慌てて解放してやったがもう手遅れで、ヨハン先生が納屋の隅に連れて行って、苦しみから解放してあげた。
リーゼルは大泣きをしたし、僕もエルマーもちょっと泣いてしまいそうだった(なんとか堪えたが)。
そしてふいの事故で亡くなったメー太郎の死体を、やはり僕らはただ埋葬するというわけにはいかなかった。リーゼル以外、みんながそのことを考えており、ヨハン先生が率先してそのことを切り出した。
「僕が処理します」
それはメー太郎を食べるということだった。皮を剥ぎ、血を抜いて、ばらばらに分解して調理できる状態にする。
もちろんリーゼルがまた大泣きをして反対したが、リーゼルこそが一番肉を食べる必要があった。マイアー夫人はリーゼルを抱いて連れて行き、マイアー牧師はメー太郎に最後の祈りを捧げた。ヨハン先生がメー太郎を抱えて連れて行こうとすると、
「俺も行く」
とエルマーが言った。驚いた僕の方を見て、
「おまえも来い」
と言う。
ヨハン先生は黙って僕らを見ていた。見ない方がいい、と先生は言わなかった。
「わかった、」
と僕が言うと、
「気持ち悪くなったら二人ともすぐに言うんだよ」
と先生は言った。付いて来い、という意味だ。
それで、僕とエルマーはヨハン先生がどんなふうにそれを行うのかを、じっくりと観察することになった。先生は自分の山荘からナイフを持って来ると、躊躇いも迷いもなくメー太郎を解体していった。首を斬り落とし、皮を剥いで逆さまにして血抜きをする。僕は一匹の生き物の中に入っている血の量を見て卒倒しそうだったし、その血生臭さと獣の匂いに、エルマーも何度か吐き気を堪えているようすだった。
ヨハン先生は手を動かしながら僕らへの説明を怠らなかった。先生のナイフは実によく切れて、するすると服を脱がすようにメー太郎の皮と肉がばらばらになった。
「先生、屠殺したことあるの?」
とエルマーが訊くと、
「いや、ないよ。ただ満州で、モンゴル人がやっているのはよく見たよ。だから覚えてるんだ。モンゴル人は実にきれいに動物を解体するんだよ」
と先生はこたえ、皮は干して乾かしておくように僕らに指示した。
「乾いたら、みんなのブーツを補修するのに使おう」
僕らがメー太郎の体で無駄に出来るものはなにもなかった。 肉も皮も、骨さえも砕いて畑の肥料にした。脳ミソも食べたし、血はスープとシチューにした。そしてなにより、焼いた肉はやっぱりとんでもないうまさだった。最初は拗ねて食べることを拒否していたリーゼルも、肉を一口食べると、あとは止められないようすだった。
僕らはメー太郎の頭蓋骨だけを埋葬して、祈りと感謝を捧げ、枯れ枝で墓標を作り、咲き始めた小さな花を供えた。
屠殺したときに着ていた服は、洗っても二、三日は匂いが取れなかった。僕らは一応最後まで、その一連の作業を見守ったが、終わってから水浴びをする前に、まずエルマーが駆け出して家の裏手の隅で吐き、それを見たら僕も我慢できなくなって吐いてしまった。そもそも吐くものがあまりなかったが、僕らは何度もえずき、何度も地面に向かって胃液を出した。
「なんで行くって言い出したの?」
と僕が訊くと、エルマーは地面に唾を吐きながら、
「だって、いつかは俺がそれをしなくちゃならないときが来るからもしれないだろ?」
とこたえた。
エルマーは普段、僕よりも子どもっぽいことをするところがあったが、妙に達観としていて判断力に優れている部分もあった。
「最後は、家族だけになるかもしれないしな」
メー太郎が死んで間もなく、僕らは納屋で子猫を見つけた。まだ小さい黒猫で、猫はヤー太郎の乳を勝手に飲んでいた。どこから来たのか、親猫は見当たらない。追い払っても遠くにやっても子猫は戻って来るので、僕らはそのうち諦めてしまった。猫は一応リーゼルの猫ということになり、彼女はその猫に〝ハル〟という名前をつけた。意味はもちろん日本語の春だ。
僕らは毎日竹藪に入ってタケノコを取るようになる。タケノコは実に優秀な食材だった。焼いても蒸しても米に混ぜてもうまい。
僕とエルマーは農家に行ってはメー太郎の代わりになる新しい山羊を物色した。何軒かの家ではこの春に山羊の赤ちゃんが生まれていたから。
ある日、僕とエルマーがいつものようにその田舎道を歩いていると、突然前方から一台の黒塗りの自動車が現れた。僕らはびっくりして道の端に避け、なにもない農道には不釣り合いなその文明の利器を、口をあんぐりと開けて見守った。僕もエルマーも、車なんてものを見たのは実に久々だった。すれ違いざまに中を見ると、運転していたのは日本人で、後部座席にも人が二人乗っていた。そのうちの一人は学生服を着ていて、おそらくは僕やエルマーと同じ年頃の少年だった。
僕は彼と目が合った。
そして過ぎ去ってしまう一瞬の間、彼はその端正な顔に、どこか儚げな微笑みを浮かべ、その微笑みは毒のように僕を痺れさせた。
「追いかけるぞ」
ぼうっとする僕の背中をエルマーは叩き、さっと道に出るとすぐに走りはじめた。僕も慌ててあとを追った。
「なんで追いかけるの?」
と訊くと、
「ばか野郎!金持ちの日本人だぞ?いいもん持ってるに決まってんだ、さっきのやつと仲良くなってなんかもらうんだよ!」
浅ましい、と僕は思ったが、そんなことをとやかく言ってはいられないのもわかってはいた。
僕らは走る車を追いかけた。走りながらふとうしろを振り返ると、農家の子どもたちも僕らと同じように物珍しい自動車を見ようとわらわらと駆けていた。
車は随分と走ってから、空き家になっているはずの豪農の家の前で停まった。僕らも少し離れた場所で足を止め、肩で息をしながら事を見守った。
最初に運転手が降りて来た。彼はすぐに後部座席のドアを開き、中から女性が一人降りて来て日傘を差した。モンペを履いていたが、実に上品な佇まいの女性で、彼女は僕らの方を見るとそっと頭を下げた。次に同じドアから、例の少年が出て来た。女性がすぐにさっと傘を差しかけ、少年は大丈夫、というふうに手で示して傘を女性の頭上に戻した。少年は僕らを見た。僕らも少年を見ていた。少年はやがて農家の庭に咲き誇る桜を見上げた。それは満開を少し過ぎて、花びらを零しはじめていた。
「Which country, are you from? 」
桜の方を見たままだったので、僕もエルマーもそれが僕たちに向けた質問だと、すぐには認識できなかった。二拍ほど遅れたあとで、
「German,」
と僕はこたえ、
「俺たちどっちもドイツ人や!」
とエルマーが日本語で叫んだ。
金髪碧眼のエルマーが突然神戸訛りの日本語で喋ったので、少年も、少年の母親と思しき女性もびっくりした顔になった。やがて少年は僕らに向かって、蕾が花開くときのような笑顔を見せた。
「西の言葉や」
と、少年は安堵したように呟いた。
1944年春、僕は雪鷹と出会った。
***
『某月某日冬の終わり
とうとう鉄道に乗ってシベリアを脱する。
ようやく奴から解放されると思いきやなぜか私の隣の座席にヤーコフの奴がしっかりと座ってくる。
途中で降りるのかと思いきや、なんとナホトカまで奴は付いて来た。隣にいる間、コートの下で私の膝をこっそり触ってくるので今更ながら殺しておけばよかったという後悔に満ちる。
「帰らないでくれ」
と奴は言う。
「帰る」
とこちらは言う。
戻ったらすぐに幹部にしてやる云々はもう何度も聞かされた話である。何度聞かせようが甚だ興味なし。
ナホトカの寒々しい港から船に乗る。北西の方を向くと小堀がソ連のロージナに潰された地はすぐそこである。なぜ私だけが生き残ったものか、改めて居心地が悪い。
甲板に出るとヤーコフたち見送りに来たロシア人どもが並んでいた。
「アスカ!」
と奴は叫んだ。
目が合うとさらに人の名前を何度も叫ぶ。あれでは去って行く主人に吠える犬のようである。
アスカアスカアスカアスカ…
気安く私の名前を叫びつづけるその口にあのゴミ屑味のパンを詰めて窒息させてやりたい。
「アスカー!ヂゴクニオチロー!」
と奴は叫んだ。他の日本人たちがぎょっとした顔で私の方を向く。面白くなり、私も笑顔になって奴に返してやった。
「ヤーコフ、地獄に堕ちろ!」
ヤーコフは泣いていた。泣きながら私に愛の言葉と勘違いして叫びつづけた。
ヂゴクニオチロ!ヂゴクニオチロ!ヂゴクニオチロ!ヂゴクニオチロ………
船は出港し、奴は芥子粒のようになり、見えなくなる。
果たして私が帰るのは故国か、それとも地獄か。
………
ユーリもかつて日本語での愛の言葉を知りたがったものだった。私はそれにもちろん嘘を教えたりはしなかった。
〝月が綺麗ですね〟
私はユーリに、そう教えた。
それが日本語の愛の言葉だと。
………
某月某日船の上
日本に近づくにつれいろいろなことを思い出す。
殊に軽井沢での日々。
あそこにいたドイツ人たちはどうなったものであろうか。
まさか殺されてはおるまいが、無事祖国に帰還したのか日本に留まっているのか。
牧師の家の長男は特に心配である。虚弱だったその妹も。
シュトゥッツマン氏のところの絵のうまい少年はどうしたろうか。氏も無事でいてくれたら良いと思う。
いずれにしても私に心配される筋合いはないと思うだろうが。
彼らはまだ私を恨んでいるであろう。致し方のないことである。
………
某月某日春
船に揺られて七日ばかり。
水平線の彼方に母国の影を見る。
帰って来た、と誰もが泣く中、只呆然とす。
舞鶴に着港。
大陸に渡ってからは手紙を出さなかったので迎える者はなし。
港の向こうに桜並木を見る。
花は盛りを迎えていた。
私は再び奉天の女のことを思い出した。
確かに、シベリアの永い冬は終わり、私は生きて再び桜を見たのである。
それが希望の象徴などでないことを、私は母国の潮風に吹かれながらはっきりと悟った。
1954年春、
私は永い地獄の入り口に立った』
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