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人生の物語はウインクするより短い。
ジミ・ヘンドリックス (米:ギタリスト)
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昨日から降り続いていた雨が、ようやく落ち着き、今では雨の粒がたまに体に当たる程度だ。
「やばい、やばい、遅刻だ、遅刻」
僕は慌てていた。待ち合わせの時刻に間に合わない。僕は急いでいた。
しかし濡れている葉っぱに足を滑らせ、すってんころりん。転んでしまった。僕の体型は、お世辞でもスマートとは言えず、寸胴だ。そのせいもあって、僕は転んだ拍子に半回転。背中を打ち付けた。
「痛たたた」
慌てていると、いつもこうだ。すぐに転んでしまう。
僕は、ドジでおっちょこちょいな、てんとう虫。
「うわー、なんて綺麗なんだ」
転んだ瞬間、目を閉じてしまって真っ暗だったけど、しばらくして目を開けると空が見えた。
僕は転んだ拍子に仰向けに倒れていた。そして空は雲に覆われていたのだけど、ほんの少しの隙間から太陽の光が何本も差し込んでいた。
「天使の梯子だ。ラッキー。今日も良いことがありそうだ」
僕は仰向けのまま天使の梯子を眺めていた。
そして、僕は思わず想像した。光の中に梯子があり、その梯子を使って、天使が地上に降りてくる姿を。
その天使は怖がりで、一段一段、恐る恐る、梯子を降りて来る。下界の地上を見るたび、『まだ、あんなに地上が小さく見える』と声を震わせながら言っている。
僕は、心の中で、その天使にツッコミを入れる。背中に翼が付いてるじゃん、っと。
僕は自分の想像が可笑しくて、一人でゲラゲラと笑う。
しばらく笑うと、僕は我に返った。
やばい、寝転んで笑っている場合ではなかった。僕は遅刻しているのだった。
僕は起き上がり、待合場所に再び向かう。
今日、僕はディベートの審査員として呼ばれている。なぜ僕が審査員に選ばれたのか?っというと、ディベートのテーマが幸せだった。
僕は、聖母マリア様から、みんなに幸せを運びなさい、という使命を渡された。なぜ、マリア様が僕に、そんな大それたことを頼んだかは謎である。僕には、みんなを幸せにする力もないし、そもそも、どうすればみんなを幸せにできるのかも分かっていない。だけど、マリア様からの頼みを断るわけにはいかない。
そんなこともあり、みんなは僕のことを幸せの専門家だと思っている。ただの勘違いなのに。だけど今回、ディベートの審査員に呼ばれてしまった。
僕が目的地に着くと、みんなの準備は整っていた。客席には多くの虫たちも観戦してた。
「ごめん、遅れちゃった」と僕は頭を下げて謝った。
「遅いよ、てんとう虫くん。早く席に着いてよ」。今日、司会を務めるカナブンさんが言った。
僕はカナブンさんに言われるがまま、席に着いた。僕の目の前には、赤と白の旗が置いてあった。
「では、さっそくディベート対決を始めたいと思います。司会は私、カナブン。審査員にはてんとう虫くん。テーマは幸せな生き方について。まず先行は赤、アリさんから」
アリさんはマイクを持ち話し出した。
「人生はいかに効率良く働くかが重要だと思うんです。みんなで力を合わせ、生産性を高め、万が一のために備え、不安を解消する。それが幸せになるということでしょう」
アリさんはマイクを置き、一礼した。客席からは拍手が起こった。
カナブンさんが「では次は白。後攻のキリギリスさんです」とディベートを進行した。
キリギリスさんはマイクを持ち言った。
「幸せになるには、有名になることが重要だよね。個性を伸ばし、人気者になって、みんなに認められるような存在になる」
キリギリスさんはマイクを置き、両手を高々に上げた。客席からは拍手が起こった。
アリさんは再びマイクを握り反撃する。
「キリギリスさん、また痛い目見るよ。万が一のときのために備えないと、どうなっても知らないよ」
キリギリスさんも言い返す。
「アリっち、いつの話をしてるんだ。アリさんに助けてもらったのは、俺のおじいちゃんのおじいちゃんの代だぜ。もう時代が変わってるんだぜ」
「時代が変わっても、大切なことは変わらない。コツコツ真面目に、仲間とお互いに協力して、周りに迷惑を掛けない」とアリさんは主張する。
「時代が変われば、大切なことも変わるの。コツコツ真面目に?そんなことより今の時代は、何が何でも有名になったほうが得なのさ」とキリギリスさんは主張。
「時代が変わっても、大切なことは変わらないの」
「時代が変われば、大切なことは変わる」
「僕たちアリの生き方のほうが幸せだ」
「いいや、キリギリスである俺様のほうが幸せだね」
アリさんとキリギリスさんのディベートは討論というより、ただの言い合いになってきた。
アリさんはキリギリスさんに向かって、「エビデンスはあるのか?」と言う。キリギリスさんはアリさんに、「それ、アリっちの意見だよね」と言い返す。
観客は二人を煽るように、口笛を吹いたり、ブーイングを叫んだりしていた。
「ピッピー。ピー、ピー」。笛が鳴り響いた。
司会のカナブンさんが、その場を鎮めるために、警告の笛を鳴らしていた。「静かに、静かに。ピッピー」。
しばらく笛が鳴ると、段々と周りが静かになった。
「ヒートアップしてきたので、一旦、前半はこれで締めたいと思います。ここで、途中経過の審査を、てんとう虫さんにしてもらいたいと思います」と司会のカナブンさんは言った。
僕は動揺した。いきなり審査を振られたので。何も考えてなかったし、何も決まってなかった。
「てんとう虫くん、アリさんが勝ってると思ったら赤い旗を、キリギリスさんが勝ってると思ったら白い旗を。では、どうぞ」
カナブンさんがそう言うと、「ドゥルルルル」とドラムロールの音が鳴りだした。
僕は焦る。考えようと思っても、頭は真っ白。何も考えれない。
僕は赤の旗を上げる。客席からは「おー」と歓声が上がる。いや、やっぱり白の旗を上げる。客席から歓声が上がる。やっぱり赤、いや白。僕はどうすればいいのか分からず、赤と白の旗を交互に上げる。
「ドゥルルルル、バンッ」
ドラムロールの後に大きなシンバルの音が鳴る。決定の合図だ。
僕は咄嗟に体が動いた。赤と白の旗を両方上げてしまった。客席からは、大きな歓声と拍手が鳴る。
「どうやら前半戦は互角のようですね」とカナブンさんは僕の旗を見て解説した。「それにしてもてんとう虫さん、盛り上げますね」と言って、僕に向かってニヤリと笑った。
僕は、そんなつもりは全然なかった。ただ何も考えられず、咄嗟に両方の旗を上げてしまっただけなのに。だけど僕は、ほっと胸を撫でおろす。そして、これからは、もっとしっかり審査しないと、っと気合を入れ直した。
「では、これからは後半戦です。今度の先行は、白のキリギリスさん」
カナブンさんは、キリギリスさんに向かって手を伸ばして言った。
「アリっちは、本当に、時代が変わってきているのに、大切なことは変わらないって思ってるの?最近は温暖化の影響で、雪降ったことないよね?なのに食料貯めてるの?何のため?コツコツ真面目に、って言っていたけど、それって無駄な努力じゃない?」
キリギリスさんは両手を広げ、やれやれ、というポーズをした。
アリさんの歯ぎしりが聞こえてきた。
アリさんも言い返す。
「キリギリスさんは、有名になることが重要って言ったけど、本当に自分が有名になれるの思ってるの?キリギリスさんの音楽じゃ無理なんじゃない?有名なれるのなんて、鈴虫さんみたいに才能ある虫だけだよ」
アリさんはニヒルに笑う。
今度はキリギリスさんの歯ぎしりが聞こえた。
「アリっち、最近、大変でしょ?外来種のアリに押されて。あいつらガタイもデカいし、組織力も半端ない。いくらアリっちたちがコツコツ真面目に働いても、太刀打ちできないでしょ。これからの時代はグローバルで戦えないと。だからアリっちの生き方は時代遅れなの」
キリギリスさんは客席を煽る。客席もそれに従い湧く。
キリギリスさんは話を続ける。
「それに引き替え俺は違うからね。確かに日本では鈴虫のほうが有名だけど、所詮、鈴虫の音楽は日本だけしか通用しない。だが俺の音楽はいずれ世界を獲る」
「君、知らないの?虫の音を音楽として捉えているのは日本と一部の地域だけなんだよ。海外では虫の音は雑音にしか聞こえないんだよ。なのに、世界を獲るなんて、ちゃんちゃら可笑しいよね」
アリさんは笑う。客席もアリさんにつられて笑う。キリギリスさんは、「えっ、そうなの?」と言って、顔を赤くした。
僕はアリさんとキリギリスさんのディベート対決に違和感を抱き始めた。
僕は手を挙げた。
「おーっと、ここで審査委員のてんとう虫くんから、何か一言あるみたいです」とカナブンさんが僕を指差した。
「アリさんもキリギリスさんも、なんで相手の幸せを否定してるの?」と僕は訊く。
「それは、俺の生き方のほうが幸せになれるから」とキリギリスさん。
アリさんも、「いや、僕のほうが幸せになれる」と言い返す。
「『キリギリスさんも幸せ。アリさんも幸せ。両方とも良かったね』っで良くない?」と僕は問う。
「いや、有名になったほうが幸せになれる」とキリギリスさんは主張。
「いや、不安がなくなれば幸せになれる」とアリさんは主張。
「ねえ、もう一つ僕は疑問があるんだけど。さっきから『幸せになれる。幸せになれる」って言ってるけど、アリさんもキリギリスさんも今は幸せじゃないの?」
アリさんとキリギリスさんはお互いに顔を見合わせる。両者とも口をもごもご動かしてるだけで返答に困っていた。
しばらくして、アリさんが答えた。「不安を解消するために、だから今、頑張ってるんだ」。キリギリスさんも大きく頷いき、「そう。有名になるために、今、俺は頑張っている」
「アリさんの不安は、いつ解消されて幸せになれるの?キリギリスさんも、どれだけ有名になったら幸せになれるの?」
「そんなこと分からないさ」。アリさんとキリギリスさんは口を揃えて言った。
「僕は思うんだけど、何かを成し遂げなくても、何者かにならなくても、幸せになれるんじゃないかな?なぜ今すぐ、幸せになることを拒むんだい?今の時点で、幸せを解禁すればいい」と僕は言った。
「だったら、てんとう虫くん、今すぐ幸せになる方法を教えてくれよ」とキリギリスさんがいい、「そうだ」とアリさんが合の手を入れる。
「幸せ」と僕が呟くと、会場はシーンと静まって固唾を飲んでいた。「幸せは、空を見ることかな」と僕は答えた。
アリさんとキリギリスさんは、目を丸くしてキョトンとした表情をした。
「空を見るだけ?」とアリさんが呟く。「それだけ?」とキリギリスさんも呟く。
「空を見るなんて、なんの生産性も無いことして、何か意味があるの?」とアリさんは訴える。
「う~ん」と僕は考える。そして言う。「意味なんてないよ」と答える。
僕は続けて説明する。「でも空を見てると、くだらないことを考えてみたりして、なんだか楽しい気分になれるんだ」
「短い寿命の中で、有名にならなくちゃいけないのに、ただ空を眺めているだけなんて、そんな余裕は俺にはない」とキリギリスさんは断言する。
「余裕がないから空を眺めれないのじゃなくて、空を眺めるから余裕ができるんだよ。そして余裕ができるから、きっと幸せを感じられるんだと僕は思うよ」と僕は答えた。
「それは、てんとう虫くんの意見だろ」とキリギリスさんが言う。
続けてアリさんも、「エビデンスはあるのか?」と言ってきた。
「うん、僕の個人的意見だし、エビデンスなんてないよ」と僕はきっぱりと言う。
「そんなの誰の参考にもならないよ」とアリさんは言う。
「幸せになるのに、誰かを参考するなんてないんだよ。アリさんやキリギリスさんの幸せを、僕が決めることができないように、僕の幸せは、僕の中にしかないんだ」
「だったら、なぜ君は、聖母マリア様から幸せを運ぶように頼まれたんだい?君が幸せの専門家だからだろ?」とキリギリスさんは訊いてきた。
「ごめんよ。僕もよく分からないんだ。なぜマリア様が僕にそんなことを頼んだのか。僕には何の能力もないんだ。アリさんのように仲間と協力して効率よく働くこともできないし、キリギリスさんのように音楽を奏でることもできない。僕ができることと言えば、空に向かって飛ぶことだけなんだ」
僕は話し終えると、空を見た。
ここへ来るときには小さな雨が降っていたけれど、今では雲ひとつない空が広がっていた。青色の空がどこまでも、どこまでも続いていた。
こんなに綺麗な空なのに、僕の心は晴れやかになれなかった。
「ごめんよ。僕は幸せを運ぶことなんてできなんだ。だから、このディベートの審査員は向いてなかった」
僕は下を向き落ち込んだ。
『顔を上げなさい、てんとう虫よ』
空から声が聞こえてきた。とても澄んだ綺麗な声だった。声の正体は、聖母マリア様の声だった。
会場にいた全ての虫たちは空を見上げていた。もちろん僕も。
空はやはり青く、高く、どこまでも広がっていた。
『てんとう虫よ。いつものように空を飛んでみなさい』
僕はマリア様の言うように、空に向かって飛んでみた。いつものように、精一杯に。
僕は何もかも忘れて、無心で高い空に向かって、どんどん進んだ。
『みんな、てんとう虫の顔を見てみなさい。てんとう虫よ、あなたは、なんて楽しそうな顔をして空を飛ぶのでしょう。あなたの笑顔を見ていると、こっちまで幸せな気分になりますわ。これが、私がてんとう虫に、幸せを運ぶ虫になりなさい、と言った理由よ。みんなも、やりたいことを、できることを、精一杯やりなさい。そして楽しみなさい』
「あっ、虹が出た」とアリさんとキリギリスさんが虹に向かって指さした。
『てんとう虫よ、あなたの前に青い空を、あなたの後ろには虹を作ってあげましょう』
会場にいた虫たちが、幸せそうな顔して虹を眺めていた。僕はそれを見て、もっともっと幸せな気分になった。
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ちょっと失礼。あの空にキスをするから。
ジミ・ヘンドリックス (米:ギタリスト)
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