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第二話「くたばれ ブルグミュラー」
僕が『悪魔』と出会ったのは、7年前のこと。あの日のことは、今もクッキリと覚えている。
学校の帰り、僕はひとりで楽器店へ楽譜を買いに行った。
6歳からピアノをはじめて4年め。次に使う練習曲集を買うよう、母さんに言われていた。
『買ってくるのは、ブルグミュラーの練習曲集よ。間違えないでね、玻璃(はり)』
母さんと先生から二回、同じことを言われた。どうでもいいけど、母さんと先生はいつも同じことを言う。
『音に集中して、玻璃(はり)』
『長さは呼吸で覚えるのよ。息で数えてね』
『背筋はまっすぐ、手首は柔らかく。ほらほら、座り方で音は変わるって言ったでしょう』
うんざりだった。
本当はピアノより、サッカー教室やスイミングクラブのほうが楽しい。
部屋にこもっているより、友達と遊びまわっているほうが絶対に楽しい。10円のお菓子を食べたり、コミックを回し読みしたり。
小学生男子なら、当たりまえだろ。
だけど、僕は黙って楽譜を買う。
母さんに逆らうのが、面倒だからだ。
口では負けるし、どっちみち子供はオヤに、かなわない。
僕はいい子だ。いい子として生きてきたし、ほかのやり方は知らない。
だから楽器店でも、こう言いかけた。
「楽譜をください、ブルグミュラーの……」
そのとき、キラキラする音が聞こえた。
何の音だろう? 空から光でも降ってきたのかな?
振りかえると、アップライトピアノにきれいなお姉さんが座っていた。
ピアノ? まさか。あれはピアノの音じゃない。
もっと柔らかくて、輝いていて。
まるで、青空のカケラみたいだった。
お姉さんは店の人にうなずくと、少し抑えた音で弾きはじめた。
シンプルなメロディなのに、ときどきスカッと音が抜けた。
抜けたところからは、また青空が見えた。
夏の直前みたいな、どこまでも晴れ渡った完全無欠の青空が。
ピアノを聞くうちに身体じゅうから何かが一気に吹きだした。
真夏の熱風が、耳から背骨を駆け下りていくみたいな衝撃。
僕のスニーカーからバネが飛び出して、そのまま青空へ抜けていける気がした。
もちろん、そんなことは全部、僕の内側で起きた事だった。
外から見たら、ただ立っているだけに見えただろう。
だけど僕は、身体ごと青い空を猛スピードで駆け抜けていた。
どこまでもどこまでも飛んでいける気がした――けど。
ぽん、と最後の音が鳴った。
余韻とともに青空が閉じていく。どんどん小さくなる空の隙間から、悪魔が手まねきしていた。
『こっちへ来いよ、楽しいぜ。頭んなかが、空っぽになる――飛べるんだぜ。お前みたいなやつでも』
「待ってよ!」
思わず叫んだ。でも、ピアノは終わった。
青空はそ知らぬふりをして、閉じてしまった。
まわりには、ずらりと並んだ楽譜の壁があるだけ。
僕はブルグミュラーを棚に戻した。
(UnsplashのArmand Khouryが撮影した写真)
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