0人が本棚に入れています
本棚に追加
第三話「ジャズの悪魔」
僕は楽器店の店員に尋ねた。
「さっきの――さっきのお姉さんが弾いていた曲は、なんですか」
「ああ、『茶色の小瓶』ね。ジャズのスタンダード曲ですよ」
「僕でも弾けるでしょうか」
「初心者向けにアレンジした楽譜がありますよ」
その日から、僕のランドセルには『ジャズの悪魔』が住んでいる。
母さんに隠れて買った楽譜『やさしいピアノソロ スウィングジャズ名曲選』のことだ。ブルグミュラーは貯めておいたお小遣いから買いなおした。
そっちは楽譜棚に並べてある。きちんと。
だけどジャズの楽譜は別だ。あれは悪魔で、僕の仲まで親友で、母さんには見られたくないものだ。だから毎日、楽譜をランドセルに入れて学校へもっていった。
歩くたびにランドセルの中で楽譜が、跳ね飛ぶようなコードを見せびらかした。
『こっちは楽しいぜ。お前が練習しているバーナムだのツェルニーだのとはまるで違う――飛べるんだぜ』
ああ、知ってるよ。
急降下するみたいなコード。最初の音はコンマ1秒おとし、裏拍で跳ねる。音が鳴ると、背中に翼が生えるんだ。
青空を自由に飛びまわる翼。
だけど僕が引くのは、カチンコチンの練習曲。
母さんが、先生が示すとおりのリズムでまっすぐに座って音を出す。
とてもきれいで、とても整っているけれども。
僕をどこへも連れて行ってくれない音ばかり。
(UnsplashのNoorulabdeen Ahmadが撮影)
最初のコメントを投稿しよう!