0人が本棚に入れています
本棚に追加
第四話「死んじまいたい、もう」
あれから10年。僕は今もこっそりジャズを弾いている。
その日、午後4時。
僕は学校から家にまっすぐ帰るとリビングにカバンを放り出し、地下のシアタールームへ降りた。ピアノの横には古いランドセルが置いてあって、ジャズの楽譜をぎっしり入れてある。
僕の飼いならせない悪魔は、ジャズピアノだ。
浮き上がるようなスウィング。なだれ落ちるようなコード進行。クラシックじゃ出せない勢い。目がくらむような切ないメロディ。
ジャズピアノは、世界最高峰だ。
地下に置いてある古いランドセルには、もうさんざん練習した楽譜が詰め込んである。ぜんぶ暗譜してあるから楽譜は必要ないんだけど。
ジャズを引くときは、かならずピアノに楽譜を置くことにしている。
置けば『ジャズの悪魔』が来てくれるから。
ふたりで秘密のギグができるから――。
「……あれ? ランドセルが、ない?」
僕は勢いよく飛び込んだ地下のシアタールームで、イヤな汗をかきながらランドセルを探す。
――ない。
ないないない。
必死に探しまわった。
いつもと違う場所に置いたのかも。
まさかと思うけど、部屋に持って行ったのかも。
探しながら思い出したんだ。今朝、母さんが言っていたこと――。
『地下室に置いてあるランドセル、ゴミの日に捨てるわよ』
ゴミの日は――今日だった。
僕は茫然とシアタールームを見渡す。
一気に灰色の地獄になった場所を。
楽譜がなければ『ジャズの悪魔』は、きっと来てくれない。
あの日、小学生の僕を誘惑した悪魔は――古いランドセルとともに、消えてしまった。
なんてこった。
朝食に、塩鮭なんて食っている場合じゃなかった。
ちゃんと話を聞いて、自分の言いたいことを言うべきだったんだ。
アホ玻璃。バカ玻璃。
死んじまいたい、もう。
(UnsplashのSoragrit Wongsaが撮影した写真)
最初のコメントを投稿しよう!