半年未満の自由

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半年未満の自由

 バンと叩きつける音がする。  生徒指導の佐々木がマイクのある講演台を、思い切り叩いた音だ。続いて耳が痛いぐらいの怒鳴り声。  広い体育館に集められた僕ら、生徒側は、流石に緊張感に包まれている。壇上に上がっている1人によって、場の空気は完全に恐怖の色で染め上げられた。  佐々木は僕たちを詰り続ける。3学期の体育館は、ただでさえ身が凍るのではないかと思うほど冷たいのに、さらに筋肉が縮みあがるような感覚が増す。  それでも叱責が長時間に及び、もうすぐ卒業する3年生から、面倒臭がっている時特有の気怠い雰囲気が漂い始めた時、僕の斜め前に座っている、同じクラスのお下げ髪の女生徒、山本が泣いているのが見えた。  なぜ、こんなことになってしまったのか。その泣く姿を見ていると、自然と考えさせられる。佐々木の詰る声に飽きてしまっただけかもしれないが。  天井が高すぎて、入るたびに何故か少しだけ恐怖を覚えてしまう体育館の真っただ中で、この惨状の原因やその他のあれやこれやに対して意識を向ける。  半袖シャツでも余裕で汗ばむ2学期明けの始業式のことだった。生徒会長が珍しくも体育館の壇上に立ち、今学期からカラオケが解禁されると告げた。思えばここが既に分水嶺だったのかもしれない。  うだるような暑さに耐えていた生徒達から喜びの声が上がる。もちろん、許可が出されずとも不良じみた奴は行っていた。学校の教師が街中全てのカラオケボックスに網を張れるでもなく、僕たちの学校の生徒が制服姿で来店しても、黙っていてくれるカラオケボックスがどこにあるかは、半ば公然の秘密として共有されていた。  それでも、今までのようにこそこそする必要が無くなったので、大概の生徒は喜んでいる。同じクラスで生徒会メンバーでもある山本が、周囲の友達と一緒に一際盛り上がっている。  彼女や他の生徒会メンバーが、校門でカラオケ解禁に向けての署名活動をする姿はちょくちょく見た。カラオケ解禁は自分のような陰キャには何の関係もないことだが、喜ぶ姿を見ると、自然と心は和む。  生徒会長より細々としたルールの共有がされた後、各クラス、少しずつ自分の教室に帰っていく。教室に戻ってから教師がやってくるまでの少しの時間、遊びに行く相談がちらほらと聞こえる。手にした自由を早く行使したい。雲一つない青空を見た時のような爽快感や開放感が、自然と漂ってきてそれ自体はそれなりに心地良いものだった。  普段からクラスの中でお調子者として通っている、柴田が1人の男子生徒を、放課後のカラオケに誘っている。誘われている男子生徒を、僕は知っていた。槇原。中学時代と合わせて、何気にもう4年以上同じクラスにいるのだが、話したことは、ほぼないぐらいの関係の奴。  槇原は少しの間だけ嫌そうな顔をしたが、柴田のノリはそんな弱弱しい拒絶を容赦なく無視する。僕はそのやり取りを見るのが何となく嫌になって、窓の外を見た。呆れるほどにその時の空は青く、もこもことした入道雲がそこに程よいアクセントを与えていた。  放課後、槇原は柴田と一緒に教室を出た。付き合いこそなかったが、槇原の性格については中学時代から何となく把握しているので、その時の彼には同情を感じざるを得なかった。  目の覚めるほどに濃くなっていた緑色の葉の時期が終わり、ちらほらと赤や黄色が目立つようになった頃。カラオケが解禁になったからって、僕らの日常は大きく変わることもなく、淡々と過ぎていた。  変わったことがあるとすれば、教室内の会話の中に、昨日、誰それと会った、この歌を今度一緒に歌おう、という新しい話題がちょっと生まれたぐらい。どうやら会話の内容を聞いてみるに、カラオケボックスは合コン会場にもなっているらしく、男女問わず出会いの場としても機能しているらしかった。  柴田はしょっちゅう嫌がる槇原を誘っていた。槇原は明らかに嫌がっているのに、柴田はふざけた様子でそれを無視し、最終的にはいつも連れ出しているようだった。  何となくそのことを思い出してもやもやしながら、廊下を歩いていると、少し疲れた顔をした山本とすれ違ったことがある。  その時は、目が合ったので何となく会釈だけはした気がする。彼女は掲示板で作業していたのか、ちょうど何かを画鋲で貼り終えた直後のようだった。まだ何枚か紙を持っていて、彼女が他の掲示板に向かうためか、十分に去った後、僕は、何となくその通知を見た。カラオケを使える時間は決まっている旨を知らせる貼り紙だった。  真新しいその貼り紙は生徒会の努力を感じさせるもので、キャラクターも下手糞ながら描かれているし、目立つように文字の大きさもメリハリがついている。一生懸命デザインしている姿が目に浮かび、それでも僕はこの貼り紙が恐らくそれほど効果をあげないのだろうな、と察しがついてしまう。  季節の移ろいと共に、やや肌寒くなり始めた廊下だが、この時感じた寒々しさは季節によるものだけではなかったと断言できる。  いつの日も、ルールを守らない人間は呆れるほどに守らない。授業中の私語も、掃除当番のさぼりも、いつまで経っても消えないのが、その証拠だ。  2学期の終業式では、生徒会長と佐々木が両方登壇し、ルールを守ることの重要性、大人になりつつあることへの自覚、今後の展開によっては再度カラオケを禁止することもありうる、ということを語った。だが、聞いている生徒側はほぼ全員はっきり言って冷めている。  どうせ、自分1人だけが破っても問題ない。そんな甘い態度に、どちらかと言えば人の心の機微に疎い僕でさえ気づけたので当然他の生徒も、教師陣も、気づいていたのだろう。  はっきり言える。この時には、もう何もかも手遅れだったのだ。  冬休み明け、休みボケもあって遅刻ギリギリの時間帯に到着した僕は、ほんの少しだけ教室から寂しい印象を受けた。  最初は病気が原因だと思った。今年のインフルエンザは猛威を振るっていて、僕の家の近くの小学校も何度か学級閉鎖になったと聞いていた。だから1人、2人の休みは珍しくもなく、普通のことだ。寂しさの原因は1つの空席で、槇原がまだ来ていなかった。  いや、遅刻かもしれないな、休み明けだし、と思いながら始業式に参加し、それでも式終了後に戻ってきた時、相変わらず槇原の姿はない。この時には僕はもう、廊下を歩いていた時に何となく聞こえてきた噂話が気になり始めていた。槇原と柴田がカラオケでトラブルを起こして、柴田が槇原を軽く嘲笑ったというものだ。  20時だから帰る、と告げた槇原をしつこくその場につなぎとめようとし、その時に槇原が唐突に柴田を怒鳴りつけた。そんな槇原に対して柴田は、そんなつもりはなかったのかもしれないが、バカにしたような態度をとった。  聞こえてくる噂話を総合して捉えると、そんな感じの内容。僕は何となくではあるが真実であると判断していた。噂は所詮、噂だろう、と理性は冷静に警告を飛ばしてくるが、普段の柴田を見ると、いかにもありそうな内容なのだ。  柴田はそんな噂が流れているにもかかわらず、以前よりもうるさくクラスの中で騒いでいた。ただでさえ苦手な奴が一層、さらに苦手な存在になってしまい、僕は狭い教室の中、絡まれないようにこっそりお祈りする。  だが3学期になって方針変更でもあったのか、柴田は僕に唐突に絡んできた。 「そういや、窪田とは一度もカラオケ行ったことなかったな」  その言葉に対して、僕は振り返りながら答える。 「そうだな、それが?」 「偶には一緒に行かないか?」 「行かないよ。面倒臭いし」 「お、何だ、何だ、ノリ悪いな。いいじゃん、行こうぜ」 「嫌だ」  拒絶の意思を示すも、柴田は遠慮なく僕の方に近寄ってくる。あろうことか座っている僕の肩に手を置いたりもする。彼はそういう奴だ。分かっているはずなのに、激しくイライラした。  その後も行く、行かないの押し問答を僕たちは繰り返す。周囲のクラスメイトの視線が集まってくるのを肌感覚で理解する。どちらかというと根暗な僕に、味方する者がいないことは明らかで、たとえ悪い噂があったとしても、クラスのムードメーカーの柴田に問題があると捉える奴はほぼいない。  柴田は天性の才能を持っている。何かしたとしても「やんちゃ」として受け止められ、今みたいな強引な行動をとっても許されるという個性。キャラと言ってもいいのかもしれない。  それは僕では持ちようがないもので、また、別に持ちたくもないものだ。 「嫌だって言ってるだろ。何回言わせんだ」  あまりにも長い間絡んできたので、僕は遂に癇癪を起こしてしまった。怒鳴り声に少しだけ柴田が驚く。 「行きたくなさそうにしていたり、拒絶していたりする奴、無理やり誘うなよ。前から思ってたけど」   余計な一言になるかもしれないと頭の中の冷静な部分は告げてきていたが、結局僕は苛立ちのままに口に出してしまう。案外何の反応もないのではないのか、とも予想していたが、柴田の表情が想定以上に歪む。  僕はその表情を見て、噂は真実である、と理屈ではなく、感覚で理解する。そして、今の一言は周囲のクラスメイトにも影響を与えてしまったのだ、と気づく。皆の僕を見る目が少し、冷たくなっていた。  楽しいリズムが保たれている中で、場が覚めるようなことを言うな。視線はそう告げている。 「怒鳴ること、ないだろ」  柴田と親しくしている男子が、ぽつりと呟く。蟻の一穴になる。小さな小さな呟きは、あっという間に皆の心理的抵抗をぶち破ることに成功する。 「ちょっとしつこかったけど、もう少し言い方がさ」 「柴田だって、槇原が孤立しないように気を遣ってたんだ」  そんな指摘が飛んできて、体中が震えそうになる。液体状の怒りが血管に沿って、駆け巡っているような気すらした。理不尽に対する怒り。  机をバン、と叩く。一瞬、皆静かになる。間髪入れず、僕は、今日は帰る、と宣言して、鞄を持って教室の出口へと向かって行く。  だが、出口を1人の男子生徒が塞ぐ。そいつの顔を見る。にやにやと笑っている。舐めきった笑い方だ。どけ、嫌だ、どけ、お前がカラオケ行かない自由があるなら、俺がここを通さない自由もある。そんな口論がまた始まる。理屈にもなっていない理屈。無理を通せば、道理は引っ込む。そんなことが分かっている奴特有の笑み。  強制的にどかそう、とそいつを押しのけようとしたが、何だお前、と言いながら、そいつは僕の襟を掴み上げてくる。恐怖と、アウェイ感がもたらす敗北への確信が僕の体を締め上げる。それでもここで引き下がったら、こちらとしても恥の上塗りなので、僕が拳を握りしめていると、教室の後ろの方からすすり泣く声が聞こえてきた。見てみると、山本が泣いていた。  世の中的に男女平等のスローガンは何度も唱えられているが、どんな綺麗ごとを並べたところで、女子の涙は、男子のそれよりも重い。僕の襟を掴んでいた男子生徒は、そろそろと手を放す。本来悪くないはずの僕でさえ、何かしらの罪悪感に襲われたし、流石の柴田も対応に迷っているようで、周囲をきょろきょろ見回していた。  僕はしばらく考えたが、初志は貫徹すべし、という自分でもよく分からない、どこか外れているような気がしないでもない使命感に支えられて、教室の外に出る。今度は誰も僕を止めなかった。もしかしたら皆、不快だから消えてほしいとでも思っていたのかもしれない。  階段を下りて、1階の昇降口から外に出た時、ずっと自分が気を張り詰めていたことに気づく。歩きながら深呼吸をすると、硬くなっていた筋肉が解きほぐされていく。曇天模様の空の下、ああ、初めて自分は学校をさぼったのだ、といった、よくありそうな感想を抱く。  やってしまった、という感覚はあるが、その時はそれ以上に爽快感が強かった。  結局、僕らのカラオケの自由は、あっという間に取り上げられた。  夜20時以降禁止のルールは、まるで張り替え作業前の障子紙よろしく、何度も何度も破られていたようで、佐々木はそれの累積が原因だ、と体育館で高圧的に説明する。  今後は一切禁止。また、教師側で把握した最後の実行犯は1週間の自宅謹慎となる旨、伝えられる。山本は佐々木の説教の間、ずっと泣いていた。彼女はここ数日時たま槇原の席を見ていた。槇原は結局3学期になってから一度も来ていない。  自分が一生懸命取り組んだ活動が、人を不登校にまでさせてしまったことに対して、思うところでもあるのかもしれない。  その日からきっちり1週間、柴田は学校に来なかった。僕はその1週間の間に担任から呼び出され、軽く叱責を受けた。長々とした説教だったが、要はさぼるな、ということだ。さぼりに至ったいきさつを説明する時間は与えてくれて、事情を知ったうえで同情を示してくれたのはせめてもの救いだったが。  1週間後、学校に復帰した柴田はしばらくは大人しくしていたが、それも終わると再び以前みたいなうるさい存在に変わっていく。今や彼は不自由をもたらした存在のはずなのに、誰も表立っては言わない。彼のキャラは、彼に対する非難を全て封殺している。  槇原は全く来ていない。もう留年だろう、という噂は日増しに強まっていった。2月に入りただでさえ寒い教室で、空席がいつも1つ以上あるのを見ると、それだけで何となく寒さが増してしまう。  山本は落ち込んでいたが、しばらくすると表面上はいつも通り振舞えるようになった。友達と姦しく騒いでいる姿を何度も目にした。しかしごく稀に、槇原の席の方を見て、沈痛な表情をすることがあり、その度に僕は、彼女とて無傷ではないのだ、という事実に気づかされる。  僕はクラスの中でやや浮いてしまい、最近では気難しいやつとでも思われているのか、遠巻きに見られることが多い。あの時、あんな行動をとったことを後悔する気はさらさらないが、それでも少しだけ、現状に文句を言いたい時がある。  最近では、面倒臭いことだらけの学校を飛び出していく想像をして、苦しい時は気を紛らわしている。柴田が騒ぐたびに、ギリギリと頭を締め付けられているような感覚がするので、その時の僕は想像の中で学校どころか人里からも離れることで精神の安定を保っている。
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