何から伝えれば

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「ちょっと! 待っ、てっ、て」 その声と共に突然左の手首を掴まれた。驚いて振り向くと、必死な表情の上野がそこにいる。美柑はその状況に困惑した。彼は掴んだ手を離さないまま言葉を選んでいるようだ。 この人は何故、何に必死になっているのか。悪者になりたくないから? 勝手にそっちの領域を掻き回したのは私なのに——。 考えている間に、突然、上野は思い切り美柑を抱きしめた。小さい美柑は、上野の腕の中でもっと小さく縮まる。コート越しでも、彼の心臓の音がはっきりと聞こえる。耳まですっぽりと包まれて、外とは思えない程暖かい。 「俺がずっとこう出来なかったのは、過去の失敗のせいです。でも……でも君のことは離したくない。だから、諦めないことにする。もう俺はいじけない。今の俺なら大丈夫かもしれないから、チャンスを、くれませんか!」 そう言って上野は、震えた腕でもう一度強く美柑を抱きしめ直した。彼の緊張が全身に伝わってくる。 美柑にとって、それは想像もしていない展開だった。何かの間違いではなかったかと、彼が発した言葉のひとつひとつを飲み込んでいく。 呼吸が苦しい程、心臓が激しく鼓動する。半分放心状態のまま、美柑は上野に身を任せた。 しばらくの間、二人はその場所でそうしていた。周りを歩く人たちも、眩しいイルミネーションも、その存在を感じない。ただ目の前の暖かさしか感じる事ができない。 詰まっていた息を長く吐き出した時、美柑はやっと状況を理解し始めた。抱きしめたまま固まって動かない上野を可笑しく思って、徐々に笑いが込み上げてくる。 「ふっふっ、これ、結構恥ずかしい状況ですね……」 「え? あ、あぁ! ご、ごめんっ!」 上野は我に帰った様子で、慌てて美柑を手放した。美柑は恥ずかしくて、うまく彼の目を見られない。 「でも……嬉しいです。すごく」 その言葉で、やっと上野が自然に笑った。 「ありがとう……俺は、美柑さんが、好きです」 「はい。私も好きです」 まるで初恋のような告白に、二人は顔を赤くして笑い合った。 目を合わせては照れ笑いをして、下を向いてはまた目を合わせる。それを何度か繰り返した後、ゆっくりとまた並んで歩き出す。会話はないけれど、少し前までの雰囲気とはまるで違う。誰がどう見ても幸せな二人だった。 美柑の心臓はまだドキドキとしていて、これが本当に現実なのかという疑いが何度もよぎる。詰まった息を何度も吐き出して、上野の顔を見上げる。彼もまだ緊張気味で、固い表情のまままっすぐ遠くを見ていた。ふと美柑の頭に智佳のセリフがよぎる。 「あ……流れなかったなぁ」 美柑が独り言のように呟いた。 「え? なに?」 上野が聞き返す。 「ううん。歌、聞こえてこなかったなぁって……あ、何でもないです」 美柑は微笑み首を振った。 「あぁ……小田和正。俺は聞こえたよ」 「えぇ!? なんでそれをっ」 一瞬、彼が超能力者なのかと思い驚いた。上野はそんな美柑を見てへらへらと笑っている。 「あぁまぁ、昨日ユウさんに聞いたせいだろうけど。『運命の恋が始まる時、頭の中で小田和正が流れるらしい』って」 そう言って、思い出したようにぶふっと一人で吹き出している。美柑はその顔を見上げ、嬉しさを隠しきれないまま覗き込んだ。 「…………運命の、恋?」 ニヤリと笑う美柑を見て、上野は「あっ」と照れたように顔を背けた。苦笑いの横顔で自分の頭をくしゃっと掻いて、もう片方の手で美柑の冷たくなった手をそっと握る。 「まぁ……そういう事に、しておこっか」 遠くまで続く眩しいほどの光の道は、この街から二人への祝福のようだった。 next 【 第7回 根拠のない期待 】
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