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初めてのデートが深大寺だった。初夏の神代植物公園で藤棚を愛でたあと、深大寺でお参りをした。おみくじは二人とも大吉で、英斗が声を立てて笑ったのを見て、律子も一緒に笑った。英斗が絵馬に、『ずっと一緒にいようね』と書いて、二人で納めた。
「中学生みたい」と律子はからかったけど、嬉しかった。
そんなことはすっかり忘れているのだろう、「すごい人出だねぇ」と、ぽかんと口をあけて参道を見渡す英斗の後頭部に、「噓つき」と、律子は心の中で文句をいった。
「とりあえずお参りする? それから蕎麦でいい?」
そういって山門に足を向けた英斗の左腕に右腕を絡ませると律子も石段を登り、鬼灯のアーチが目に鮮やかな茅葺き屋根の山門をくぐった。
山門を抜けた左手にある手水舎で手を清め、柄杓に残した水を柄に流し、柄杓を裏返して戻す。
「お作法完璧だね」と、英斗が満足げにうなずく。
初デートのときに所作が違うよと、英斗が教えてくれた。英斗は三つ年下なのに自分が知らない知識が豊富なところが、それまでの男とは違った。
この日は土曜日で鬼灯祭りの初日だ。賽銭箱まで長蛇の列ができている。
二人で最後尾に並ぶと「りつ姉、小銭貸して」と、英斗が右手を出してきた。お願いがあるときは『りつ姉』と甘えてくる。しょうがないなと律子は財布から五百円玉を取り出し、「はいお餞別」といって、英斗の右掌に乗せた。
甘えてくるときに自分を「りつ姉」と呼ぶのは、律子の妹や弟と同じだった。
律子が四歳のときに、妹の穂花が生まれた。そのときから両親は律子を長女として扱いはじめ、まだ幼稚園だったが、律子もなんとなく親に甘えづらくなった。
両親は共働きで母親が病棟看護師だったこともあり、夜勤のときは律子と父親が穂花の面倒を見た。もっとも父は、仕事には熱心だったが子育てには関心が薄い人で、穂花をあやすのはもっぱら幼稚園児の律子だった。
穂花が三歳になってすこし手がかからなくなった、律子が小学校に上がる年に、弟の純平が生まれた。だから、律子は子育ての経験はないが、男の子は女の子よりも手がかかるという話には共感しかない。今は専業主婦の友達と、遜色なく子育ての話が出来るのも、こうした経験のせいだ。
参道沿いの八起という蕎麦屋は、初デートで寄った店だ。庭の水車がとろとろと水を流し、池の色とりどりの鯉が目に楽しく、風情も味わえる。
二人が腰を下ろしたテーブルには、観賞用鬼灯の鉢上が飾ってあり、妖しい赤味が食欲をそそった。
英斗はつややかな蕎麦に目を細め、
「深大寺といえば蕎麦。しばらく食べらんないから味わわないと」と言って、蕎麦をつゆにつけると、ずるずるっと美味しそうにすすった。こんな日にも食欲あるんだと嫌味が頭をよぎり、律子はぎごちなく微笑んだ。英斗の目を盗んでわさびを大量に入れてやろうかとも思ったが、大人げないのでやめた。
深大寺ビールを一口飲んだ英斗が「りっちゃん何お願いしたの?」と訊く。
律子は庭の水車を見ながら「もちろん英斗のビジネスの成功よ」と、また嘘をついた。本当は、今日英斗が心変わりをして日本に留まることをお願いした。お願いするときに、神様に名前と住所を告げてから、願いごとを伝えた。これも英斗に教えてもらった作法だ。でも来週の今ごろは、英斗は日本にいない。マレーシアだ。そこに自分の姿は無い。
ひと月ほど前、「りつ姉、相談があるんだ……」と切り出された。別れ話だった。
四年も付き合ってきたし、躰も心も価値観も相性は悪くないし、マレーシアはそう遠くない。別れる必要ないじゃんと思ったし、そろそろプロポーズしてくれるんじゃないかと、うっすら期待もしていた。
「僕の人生の山場だから、ゼロクリアで頑張りたいんだ。りつ姉、これからは親友として応援して。りつ姉に背中押されたら、俺がんばれる」
「はあ? 意味わかんないんだけど」と、心の中でつぶやいた、というか叫んだ。
「わたし三十四なんだけど。英斗と結婚したいんだけど!」と切れることができたら、どんなに楽か。でも、『長女なんだからわがまま言わない!』のしつけのおかげで、聞き分けが良い女に育った。心がずっと苦しかった。英斗も手を差し伸べてはくれなかった。
けっきょく貴方もわたしに甘えるのね。
悶々としながら律子は、三本目のビールを注文した。
「りっちゃんペース早くない? だいじょうぶ?」
律子は酒が弱い。英斗が困惑した目を向ける。
「大丈夫よ。英斗の壮行会なんだから、しけたこと言わないの」と、早速新しいビールに口をつける。そうだね、と英斗もテーブルのビールを右手で掲げ、
「りっちゃん、今までありがとう。幸せになって」と、律子のビールにカチンと瓶をぶつけた。
幸せになって……? はあ? 律子の中で何かがぷつんと切れた。
「なにいってんの? 勝手なこといわないでよ! 人をなんだと思ってんの」
英斗が「えっ」と、丸い瞳をさらに丸くする。初めて目にした律子の剣幕に、口をあんぐりとして固まっている。地雷を踏んだ自覚がない顔だ。
「わたしもマレーシア行く! じゃないと、これ食べてやる!」
傍らの鬼灯の鉢から一つもぎ取り、袋を破ると橙色の実を口に放り込んだ。
「ちょっとりっちゃん!」
身を乗り出した英斗が律子の顔に両手を伸ばす。わたしも行くと律子が叫び、そんなことより鬼灯出しなと英斗も叫び律子の頬をぎゅっと掴む。律子の犬歯が橙の皮を破り口中に苦い液があふれる。
そのままもぐもぐと咀嚼し、
「うえっ」と眉根を寄せると、ビールでごっくんと流し込んだ。
あっけにとられる英斗を余所目に、律子は背中を丸め胃のあたりを右手で押さえると、口元を左手で覆う。
「うっ……」と両頬をリスのように膨らませ、がたがたっと椅子を引くと化粧室に駆け込んだ。
律子はしばらくトイレに籠っていたが、中毒症状を起こし、英斗が呼んだ救急車で緊急搬送された。
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