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オフィスビルの高層階で、楓は小さな部屋に案内された。
分厚い扉をぴっちりと閉め、スーツ姿の彼が楓に向き直る。その胸で、「ジュラシック・トラベル株式会社」と書かれた名札が揺れた。
「一億二五〇〇万年前へのご旅行をご予約されていた、山岸楓様でお間違えありませんか」
「はい」と、彼女は頷いた。彼が、少したどたどしく言う。
「わたくし、本日のツアーガイドを務めます、正親町三条昴と申します。苗字が長いので、お気軽に『昴』とお呼びください」
昴の説明を聞きながら、彼女はわくわくした。タイムマシンが発明されて三十年。時間旅行に行けるのは、今までは一部の研究者だけだった。それが今日、一般向けにも解禁されたのだ。
「これから私たちが向うのは恐竜時代。今の地球とは全く別の世界です。研究が進んだとは言え、未知の微生物もたくさんいます。――上をご覧下さい」
昴に促される。天井一面に、シャワーヘッドのようなものが等間隔で取り付けられていた。床にも無数の小さな穴がある。
「天井と床から、免疫スプレーというものが出ます。体にかけると、目に見えない膜ができるんです」
そう言いながら、彼は壁の釦を押した。上下からいっぺんに霧が噴き出して、目の前が真白になる。楓はゴホゴホと咳き込んだ。
「何なんですか、これ」
霧が晴れる。「すみません」と謝って、彼は続けた。
「水や空気は、このスプレーで作った膜をすり抜けられます。ですが、蛋白質などの大きな分子は弾き返されるんです。ですから、病気のもとになる微生物がやってきても、あなたの体には附きません。逆に、体にもともと住みついてた微生物を、大昔に落してくる心配もないんです」
彼女は片足を上げて、登山靴の裏をまじまじと眺めた。昴が付け加える。
「スプレーはまだ研究段階なので、効目は一時間しか持ちません。ですから、旅行と言っても一時間以内に引き上げなければなりません」
「構いませんよ」
楓は満ち足りた表情で言った。
「たった一瞬でも、生きて動いている恐竜を見られたのなら、私の人生に悔いはありません」
昴は微笑んで、ひょいと部屋の脇に後ずさった。楓の前方には、複雑に配線が張り巡らされた白い扉がある。
「行先は既に設定してあります。この扉の向うは、もう中生代です」
ドキドキする胸を押さえて、楓が取手を摑む。
扉の隙間から、冷たい風が勢いよく吹き込んだ。前髪が捲れる。風圧に負けないように、肩を押し当てながら開ける。その先の光景に、彼女は目を輝かせた。
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