ドッグフードは今日も美味い。

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 ドッグフードは今日も美味い。ジョンはそんな顔をしながら皿に載ったドッグフードをむさぼっていた。  ジョンは俺の飼い犬である。茶色の中型犬で、暇さえあればこの部屋の中を走り回っている。ジョンがこの部屋にやって来たのは、ジョンがまだ赤ちゃん犬だった時である。ふらりと立ち寄ったペットショップで目を惹かれ、気づけばジョンはうちにいたのだった。それからジョンは毎日夢中になってドッグフードを食らい続け、ぐんぐんと大きくなっていった。あっという間に成犬の姿へと成長したジョンは部屋中をしっちゃかめっちゃかに走り回る。部屋の中が荒らされることも多かったが、一人寂しく生活を送っていた俺にとって、なんだかそれくらいが丁度良かった。  ジョンに与えるドッグフードはジョンがうちにやって来た時から何ら変わっていない。ジョンを買う際にペットショップでおすすめされたそのドッグフードを皿に出すと、まだ小さかったジョンはそれを勢いよく平らげた。よほど舌に合うものだと、それから俺はそのドッグフードを与え続けている。月に一度程度インターネットでまとめて注文し、なんとなくで定めた量を毎食皿の中に入れておくだけである。そして既に大きくなり、何年か経った後もこうしてジョンは毎日飽きもせずそのドッグフードをむさぼり続けている。  俺はそんなジョンの姿を見て、ふと、そんなにも美味しいものだろうかという疑問を持った。そのドッグフードは何の変哲も無い、よくある茶色い粒状のものである。値段からしても特別高級ということも無く、ネット通販の画面に流れる他のドッグフードと比較しても大して変わらないと思う。そんなものをジョンはよくもまあ何年も同じように、毎食の度にこれほどまでの新鮮な喜びを溢れさせて食べるものである。  そして俺はドッグフードをむさぼるジョンの傍らに行くと、それを一粒摘みあげて自分の口に放り込んだ。  カリリと音を立ててその粒を噛み砕いた瞬間、ほとばしるほどに芳醇な味と香りが口の中に広がった。それは肉や魚や野菜など、ありとあらゆる食べ物の旨味を凝縮したようなものに思えた。すり潰され粉となったそれは舌の上に溶けて多量のエキスを押し広げながら喉の奥へと伝っていく。そしてあっという間にその粒は口の中からいなくなり、僅かな余韻だけが残った。だがその余韻だけでも俺はどんなレストランで食べる料理よりも優れている気がした。それはこれまでに食べてきた料理の記憶をどれほどに寄り合わせても説明できないほどに、これまで食べてきたどんな料理よりも美味いのだった。  俺は気づけば次から次へとその粒を口に運んでいた。そしてすぐにジョンの皿の上からは粒が無くなり、俺は棚の上に置かれたドッグフードの袋を掴むと、その中身を全て床にぶちまけ、一心不乱にその粒を掴み、口に運んでいくのだった。俺の横ではジョンも同じように粒を噛み続けている。俺はようやくジョンの気持ちを理解することが出来た。そのドッグフードはあまりにも美味すぎるのだった。    ストックしてあった二袋はあっという間に空になった。既に相当な量を腹に収めたはずであるが、不思議とまだ満腹ではなかった。むしろさらにドッグフードを舌が求めている。とにかく俺はパソコンを起動し、ネット通販のページに飛ぶとそのドッグフードの袋を注文した。始めに十袋まとめて注文し、少し経ちどうにも落ち着かなくなった俺は再びパソコンを開き、また二十袋注文した。どうやらそのワンクリックで在庫が切れたらしく、注文後の画面にはただいま在庫切れという不快な文字が表示された。  出来るだけ急ぎの配達を希望したため、ドッグフードの束は夜には届くらしかった。夜になるまではあと八時間といったところだったが、俺にはその八時間が永遠のように思えるのだった。指先は震え、ドッグフードのことしか考えられない。舌の上で急速に薄れゆくその余韻に強い恐怖を感じるのだった。それは麻薬の常習犯にでもなったような気分で、俺は空になったジョンの皿や、ドッグフードの袋の内側を丹念に舐めた。  こんなにも美味いものをお前は今まで食っていたんだなと、俺はジョンに話しかけたりなんかもした。  インターホンが鳴ると、俺は半ば奪い取るようにして配達員からその袋たちを受け取った。一度に届いた三十袋を全て運び入れるのは多少難儀だったが、待ち焦がれた物が届いた喜びはそんな面倒くささを簡単に覆い隠し、俺は無心でそれらを室内に運び入れた。  俺が袋を思い切り開けると、中に詰まった粒は勢いよく周囲に飛び散った。俺はそれをまた床にぶちまけ、両手いっぱいに掴んで口に押し込んだ。口内を埋め尽くすほどの粒に俺は激しい興奮を覚え、それらを思い切り噛み潰し味わい、楽しんだ。俺の横ではジョンもまた床に散らばった粒を食べていた。  ジョンの姿を眺めながら、きっとドッグフードには最も適した食べ方も存在するに違いないと思った。ドッグフードはその名の通り犬のための食べ物だ。ゆえに犬のように四足歩行で、床に顔を近づけ、そこにある粒を食らうのが正しい食べ方であり、いわばマナーであろう。俺はさらにいくつかの袋を引きちぎるように開け、中身を全て真下に落とし、床の上にドッグフードの山のようなものを作った。そして俺は四足歩行の体勢を取り、その山の頂上に顔を近づけ、そのまま大きく口を開け食らいついた。すると口の中で弾ける粒達は、これまでとはさらに比べ物にならないほどの味を俺に感じさせるのだった。先ほどまでのように両手を使う食べ方よりも、この方が人間としての尊厳や恥じらいなどの、不必要な要素を取っ払ってくれているのかもしれない。ドッグフードのもたらすとめどない旨味が何の障害も無くダイレクトに俺へと伝わってくる。俺はさらに咀嚼の速度を上げながら、その山が跡形も無くなるまでむさぼり続けた。  犬は服なんて着ていないわけであるから全て脱いだ。そして犬のように時折吠えながら、俺は床に広がるドッグフードを食べ続ける。新しい袋を開ける時も、それを床の上で両前脚を使って押さえつけ、袋の端を噛み千切った。目線の端に映るジョンはもうドッグフードを食べていなかったが、俺はもうそんなことどうでもよかった。俺はこの粒を食べていられればいい。むしろジョンがいなくなる方が好都合だ。床の上の粒に視線を走らせながら、ふと目に付いた自分の手の表面に、うっすらと茶色い毛が生えている気がした。だがそんなどうでもいいことに気をやるほど俺は暇ではなかった。俺はひたすらにドッグフードを齧らなくてはならない。  その手や腕に生える茶色い毛が少しずつ色濃くなっても、それが全身にまでおよんでも、お尻の少し上の方に違和感を感じても、そこから柔らかく長いものが伸び、垂れ下がり始めても、喉から言葉が発せなくなり、吠えることしか出来なくなっても、さらにはその吠える声が、何度も聞いたジョンの吠える声とそっくりになっていても、自分の身体が少しずつ縮んでいくような感覚を覚えても、俺はひたすらにドッグフードをむさぼり続けた。  部屋の端に置かれた姿見に目をやると、そこに映っていたのは全身を毛で覆われ、尻尾を生やし小さくなった俺の姿だった。そして顔はほんの少し元の面影を残して、あとはもうほとんど犬のようになっている。それは紛れも無くジョンの顔に違いなかった。  俺は部屋を見渡し、ジョンを探した。ジョンは椅子に座り、パソコンを開いて何やら操作をしているのだった。ジョンの身体にはもう毛が生えておらず、人間のような肌をのぞかせながら、俺の着ていた衣服を身に纏っていた。体もいくぶん大きくなったようでさらには形も変わり、どこから見ても人間のような姿となっている。おそらくそれは俺の姿だった。ただその顔はまだほんの少しだけ、ジョンの面影を残していた。 「待ってろよ、今新しいドッグフード注文したからな」  パソコンを操作しながら、ジョンは俺に向かいそう言った。俺は何か言葉を発しようとしたが、口から出るのは吠える声だけだった。  そして俺はまたドッグフードを食べる。今の俺に出来ることはただそれだけだった。俺のしたいこともただそれだけだった。時折パソコンの前に座るジョンの顔を見上げると、ジョンは優し気な表情を浮かべドッグフードをむさぼる俺の姿を見ている。その顔はまた少しずつ変化し、元の俺の顔へと変化していく。姿見に目をやれば俺だってそうだった。ドッグフードを齧り顔を上げる、その度に俺の顔は犬の顔、ジョンの顔へと変わっていく。そうして遂にはそれは終わった。姿見の前にまで駆け寄ると、目の前に映っていたのは完全なジョンの姿だった。 「もうこれが最後の一袋みたいだぞ」  頭の上で声がする。見上げるとそこではジョンが、完全な俺の姿となったジョンが、ドッグフードの袋を両手で開けているのだった。そしてジョンはドッグフード用の皿の上にそれを注ぎ入れ、俺の顔の前へと置いた。 「また夜まで新しいやつ配達に来ないから、ゆっくり味わって食べるんだぞ」  それは俺の声だった。俺の声だったものだった。  俺は目の前の皿に載ったドッグフードに口をつける。その途端にまた芳醇な味と香りが口の中に広がる。それは今までと同じ味ではあったが、何故かこの姿となった今、最も堪らなく美味く感じるのだった。すぐに俺は夢中になってそれをむさぼった。むさぼり続けた。目の前に置かれるドッグフード以外のことなど、どうだっていいのだった。俺にはこのドッグフードさえあれば良かった。これさえ食べることが出来ればそれで良かった。  あれからどれだけの時間が経っただろう、ご主人様の手によって皿にドッグフードが注がれ、俺は一心不乱にそれを食べる。 「ジョン、もっとのんびり食べればいいのに」  ご主人様は俺の頭を撫でる。ドッグフードは今日も美味い。
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