ぬきさしならぬ、銀座線

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 平手を打った私の右手はじんわりと熱を持ち始める。興奮とも開放感とも言えないそれが、とても心地良かった。  ざまあみろ。  清々しく言い放ってやりたい気持ちを抑えて私は席を立ち上がると、目の前の男はみっともなく私に許しを請う。私と彼の痴話喧嘩にもならないような恋愛話の顛末は、惹きつけるように喫茶店にいる観客の視線を一気に集める。まるでドラマのヒロインにでもなったかのようだ。   「じゃあね」   私は自分の頼んだアイスコーヒーの代金をテーブルに置いて、うじうじと言い訳をする彼に永遠の別れを告げた。浮気をする男に立てる義理は何一つ残っていやしない。跡を濁すこともなく、私は店の扉を開ける。扉は軽やかに開いた。私は店を飛び出した。このままどこにでも行きたい気分だった。    銀座の街は群青の空に着飾っている。私は夜の銀座よりも昼間のこの街が好きだ。からっと晴れた空気がもう間も無く迎える春を知らせるようだった。私は自由だ。今すぐにでも駆け出してしまいたい気分でこの街を闊歩する。歩き始めると全身が火照るように暑くなってきて、冬物のコートを脱いで右腕に抱えて歩いた。銀座の街には私でも名前を聞いたことのあるブランドのアパレルショップが整然と並んでいて、その前を一つずつ通過していく。仕事一筋で過ごしてきた私はさしてブランド物の洋服に興味なんて無かったが、通帳に貯まったお金と五年間積み上げた彼との関係を切り崩せば、この店の一番高いコートをも買えることだろうと思った。街を歩くと多くの人とすれ違って、スーツ姿のサラリーマンや子供を連れた夫婦や髪色の明るい若者たちを横目に通り過ぎた。銀座駅に向かう地下階段から溢れるように多くの人が吐き出される中、私は地下へ降りていく。  東京メトロ銀座線の改札を抜ける頃には既にうっすらと汗をかいていた。私は息を吐く暇もなく、ホームに滑り込んでくる電車の一番近い車両に乗り込んだ。乗客は疎らであったが座席は全て埋まっていたので、私は乗車した方と反対側の扉にもたれかかるように立った。外の暖かな陽気を扉が遮断して、黄色い電車は渋谷方面へ向かって進み始める。  喉が渇いたな、と漠然と思った。そういえば代金はしっかり置いてきたのに、頼んだアイスコーヒーを一口も飲まなかった。テーブルの上にぽつんと残されたあのコーヒーが今になって頭の中に鮮明に浮き上がる。私は鞄の中を漁ったが、そこには代わりの飲み物なんて入っていない。電車を降りて飲み物を買うほどでもないか。そう自分に言い聞かせながら、移り変わっていく地下鉄の車窓に目を移した。  浮気をされていたことが腹立たしかった訳ではない。もちろんそれに一切不服がなかった訳でもないが、それよりも私の琴線に触れたのは、彼の私に対する横柄な罪悪感に対してだ。謝るくらいなら初めからやらなければいいのに。もっと早くに別れが切り出されれば、きっと今頃私だってもっと違う人生を歩んでいたに違いない。二人で過ごした時間に馬鹿みたいな心地良さを味わわなくて済んだだろうに。電車の速度は段々と速くなる。私は右手で金属のポールを握った。ひんやりとした冷たさが右手の熱を奪って行き、私の頭も次第に冷静さを取り戻してゆく。  私が仕事を理由に彼との時間を疎かにしていたからだと言われれば、きっとそうに違いない。彼は私より二歳年下で、仕事も人間関係も華やかさを増してゆく一方で、対して私はいつも自分の忙しさに酔いしれて、そういった多くのものを切り捨てていた。私だって完璧な人間ではないし、私が彼を蔑ろにしていた部分はあったかもしれない。けれどそれを理由に人を傷つけてもいい理由にはならない。私は右手をもう一度強く握った。彼の左の頬を力強く叩いたこの右手からは既に、わずか数分前まで感じていた勇ましさは失われていた。  電車内の空気は外のそれとは異なり、空調機による機械的な暖かさに包まれていた。小さく喉を鳴らす。やはりコーヒーを飲んでおけばよかった。小さな後悔に気がついてから初めて、もう彼との関係は取り返しがつかなくなってしまったのだと実感する。私たちの関係にひびを入れたのは彼の方だが、終止符を打ったのは間違いなく私の方だ。罪悪感はない。私を裏切ったのは彼の方だ。それは間違いないのに、さっきまでそこにあった開放感は既に跡形もなくなっている。電車の揺れと呼応するように私の胸の中でざわざわとしたものが広がってゆく。人を傷つけていい理由なんて誰にもない。先ほどまで自分を正当化していた言葉に、彼の頬を叩いた自分の姿が重なった。  電車はやがて渋谷駅に到着した。真新しい銀座線渋谷駅のホームは明治通りの上に高飛車に鎮座する。開放的なホームに降り立ってしまえば、高い天井から晴れやかな日差しが降ってくるようだった。綺麗なホームを見上げながら、私は改装工事が行われる前のホームの方が好きだったなと思った。あの昭和レトロを切り取って残したような、こじんまりとした背の低いホームが好きだった。気がつけば私は大人になって、時代は令和に移り変わる。巻き戻ることのない時間を一気に体感したような気分だった。眩暈がしそうな気分だった。  浮気をした彼を許すことなんてないけれど、もしも私があと二歳若かったら、彼の前で泣き出す権利があっただろうか。  外の空気は少しだけ寒く感じた。私はもう一度コートに袖を通して、重くなった足を動かし始める。どこかへ向かおうと思った。向かってしまおうと思った。向かわなければならないと思った。温かいコーヒーでも飲みに行こうか。きっとその味は、飲み忘れたコーヒーと決して同じでないだろう。その違いに気付かないふりが出来るほど、私はもう若くはない。
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