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あんなことがあった翌朝も、樹は平気な顔をして俺を迎えに来た。ベロは大丈夫か、と訊こうとし、とんだ藪蛇だと気付いてやめた。祖母の淹れたホットココアを飲み、ニュース番組の占いコーナーを見てから、一緒に家を出た。
樹が昨日のことをなかったことにするつもりなら、こちらもそのつもりでいよう。と思っていた矢先、手を握られた。しかも電車内でだ。一応朝のラッシュ時ではあるけど満員列車というわけではなく、でも学校の知り合いに会う可能性は十分にあり、でも入口付近に立っているから人目には付きにくいのかもしれなくて、だけど同じ制服を着た男同士が手を繋いでいる光景は、やっぱりあまりにも奇妙すぎるんじゃないだろうか。
一瞬で色々な考えが頭を過ったが、手を振り払うことはできなかった。景色がびゅんびゅん飛んでいく車窓に樹の姿が映る。微かに目を細めるので、俺は目を逸らして俯いた。こんなの、やっぱり変だ。もしも誰かに見られたらと思うと、いや、たぶんもう誰かしらには見られているだろうが、そう思うと恥ずかしくて心臓が異様な音を奏でる。
駅に着いた。窓の向こうに知っている制服が見え、俺は咄嗟に樹の手を振り払った。手汗でびっしょびしょになった掌をズボンで拭った。ドアが開いたので、樹の表情は分からなかった。
午前中ずっと、やけに目が冴えていたのに、授業の内容は右から左に通り抜けた。板書もほとんど取れていない。後で誰かに見せてもらえたらいいが、たぶん無理だろう。重い気分のまま昼休みを迎えた。樹が来る前に、俺は弁当を持って屋上に逃げた。
入口からなるべく遠い端っこの青いベンチに一人で腰掛けて弁当をつつく。夕飯の残りの肉じゃが、朝食の残りの焼き鮭、彩りのブロッコリーとミニトマト、そして出汁巻き玉子。白米には梅干しがのっていて――
「悠ちゃん!」
樹の必死な声が秋の空にこだました。他にも屋上で昼食をとる生徒はいる。俺は思わず立ち上がった。
「よかった、いた……!」
昼休みは半分ほどが過ぎようとしているのに、樹はわざわざ俺を探して屋上まで来たのか。なぜ……?
「教室行ったら、悠ちゃん先行っちゃったって言われたから、中庭行ってみたんだけどいなくて、だからさ、ほら、あの、前庭の花壇で食べたこともあったから、そこも寄ってみたんだけど、全然いないし、」
樹は息を切らして喋る。
「でも、屋上にいたんだね。見つけられてよかったよ。いなくなっちゃったかと……」
隣に座って、レジ袋から購買部の弁当を取り出す。海苔弁当らしいが、余程振り回されたらしくぐちゃぐちゃに崩れていた。
「あらら。まぁ、胃に入れば一緒だからな」
箸を割り、大急ぎで食べ始める。魚のフライも磯辺揚げも、ごはんと一緒に掻き込んでゆく。そんなに急がなくてもいいのに。そんなに急ぐくらいなら、別の場所で一人で食べたらよかったのに。というか、一応病み上がりのくせに、こんなにガッツリ食べて平気なのか。お腹がびっくりするんじゃないのか。
「……ゆ、悠ちゃん」
それまで弁当に集中していたはずの樹が、少しばかり頬を赤らめてこちらを向いた。
「あ、あんまり見つめられるとさ、その……」
俺は慌てて目を逸らした。
「見てない」
「見てただろう」
「見てない。お前が意識しすぎなだけだ」
「そうかなぁ」
「そうだ」
樹はへらへら笑う。調子が狂う。俺は、まだ残っていた白米を一気に掻き込んだ。さっさと食べて、こいつのことなんて置いて帰ってしまいたい。
「悠ちゃん、あんまり急ぐと詰まらせるぜ」
「お前こそ」
「そもそも、悠ちゃんの一口は小さいんだから、無理しない方がいいよ。お茶飲むかい? 買ったばかりだから冷えてるよ」
「……いらない」
ペットボトルを回し飲みなんてしたら、何というか、つまり、間接的に唾液の交換をすることになるわけで、それは何となく……別に、嫌だとかそういうわけじゃないけど……
「……水筒あるから」
「ちょっと、動かないで」
気付くと、樹の顔がすぐそばまで迫ってきていた。その長くしなやかな指が、今にも俺の唇に届こうとしている。俺は反射的に飛び退いて、両手で口元を覆い隠した。
「んなっ、なにして……!?」
「ちょいちょい、なんで逃げるんだい」
「だっ……って、こ、こんな、外で、なんて……!」
「まぁ、もう取れたからいいんだけどね」
何がだ、と思う間もない。樹の手には小さなご飯粒が摘ままれていた。そしてそれを、樹は当然のように口に含んだ。俺が食べこぼした俺の米粒を、樹が食べた。その瞬間、どういう原理かは意味不明だが、のぼせたように顔が熱くなった。
「……悠ちゃん?」
一旦離れたはずの樹の顔がまた近付いてくる。榛色の瞳に、亜麻色の長い睫毛、凛々しい眉に、引き締まった口元。見惚れるほどに整い、大人びた顔付き。反対に、今の俺はどんな顔をしているのだろう。酷く情けない面を晒している気がする。見られたくなくて、ぎゅっと目を閉じた。
ふわ、とシトラスが香る。唇に柔らかい感触。甘酸っぱいレモンの味。ああ、そうだよ。俺の知ってるキスってのは、こういうやつのことだ。これ以外、思い付きもしなかったのに。
恐る恐る目を開けると、樹がいた。至近距離で、玩具をねだる子供のような目をして、俺を見ていた。
「……今日もうち来るかい?」
それが何を意味するのか、分からないふりをした。自分自身にも嘘をついた。すぐには決められなくて、「おやつがあったら持って行く」とだけ答えたが、祖母がおやつを作って待っていることを知っていた。
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