第六章 冬の夜

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 この季節、四時も三十分を過ぎれば日が暮れる。宵闇迫る街を、俺はふらふらと彷徨った。家に帰ろうとして、どうしても足が向かない。    気付けば、愛宕山中腹の展望台まで来ていた。東屋のベンチが冷たい。コート越しにもひんやりする。でも、なんだかもう疲れてしまって、俺は構わず寝そべった。見晴らしのいい場所へ来れば気分も晴れる気がしたのに、街の灯りが暖かいから孤独が募る。    すっかり、夜の帳が下りた。真冬の夜に山登りなんかする物好きはいない。今頃、家はどうなってるだろう。祖母には悪いことをした。普段より手の込んだ食事を用意して、待っていてくれたに違いないのに。でも、今は誰とも顔を合わせられない。    樹は……、樹は、今頃どうしているだろうか。律儀にケーキだけは用意して、でも、今日できたばかりの彼女とデートしてるかも。あの子がよりによって今日を告白の日取りに選んだのは、たぶん、そういうことだろう。恋人と過ごすクリスマスなんて、憧れの的だもんな。    ポケットを漁ると、キャンディが出てきた。前に樹がくれたやつだ。レモン味だし、最悪だ。でも空腹には敵わない。キャンディを舌の上で転がしながら、マフラーをきつく結び直す。    いつまでもこのままってわけにもいかない。次に樹と会った時、どう言葉をかけるか考えておかなくては。友達なら、素直に祝福してやるべきだろうか。お前だけズルいぞ、なんて、ちょっと僻んでみるのもいいかも。でも、結局何も言えなくて、逃げ出してしまうかもしれない。そうなったらみっともなくて、二度と話なんてできない気がする。   「はぁ……寒い」    溜め息が白く曇る。そろそろ帰ろうかな。樹がいないのなら帰ってもいいんだけど。……やっぱり足が動かない。遅くなればなるほど腰が重くなる。さすがに一晩明かすとなると装備が不安だし、警察沙汰になったらもっと困るし……      ――夜に独り、この場所に置き去りになるのは、初めてではない。あれは小学三年生の冬。クリスマスの前日だった。今日よりももっと寒かった。母親が、男を作って出て行った。    こっそり出ていくつもりだったろうに、早帰りだった俺と偶然鉢合わせた。「おでかけ?」と俺が訊ねて、母が「デパート」と答えて、「連れてって」と俺がねだった。母は本当にデパートへ連れていってくれた。お菓子を買ってくれて、ゲームセンターで遊ばせてくれた。    最後に、愛宕山に登った。父が蒸発して祖父母宅へ身を寄せたすぐの頃、母によく連れてきてもらった場所だ。「飲み物買ってくるから待ってて」と言って母は山を下り、それきり戻ってこなかった。    西の空に陽が落ち、世界に闇が満ちても、母は帰ってこない。俺は、ゲームセンターのメダルをポケットの中で握りしめながら、母に初めて買ってもらったお菓子を大事に食べた。グレープ味のグミだった。    自分は母に捨てられたと子供ながらに理解していたのか、母が迎えに来てくれると一途に信じていたのか、今となってはもう分からない。ただ、待っていろと言われたから、俺はいつまでも待った。いつまででも待った。そのうち眠くなって、気付いた時には――      暗闇に、枯れ枝を踏む音が響いた。振り向くより先に、暖かい何かに包み込まれる。   「たっ……?」 「悠ちゃん!」    一拍遅れて、抱きしめられていると気付いた。      ――あの時も、俺を見つけてくれたのは樹だった。薄れゆく意識の中で、あいつの声だけが高く響いていた。霞む視界に、あいつの真っ赤な泣き顔だけが揺れていた。  あの時、樹はどこまでのことを知っていたんだろうか。「大丈夫だよ」「オレがそばにいるからね」って、ただそう言って、小さい体で力いっぱい抱きしめてくれたっけ。あの時のあの温もりだけが、俺を今日まで生かし続けている。      凍えた指先が融けていくようだ。でも、あれ? 俺、こんなことしてていいんだっけ。   「っお、前……彼女は!?」    突き放そうとして振り上げた両手は、難なく絡め取られた。   「何の話?」 「だからっ、彼女! 放課後の」 「ああ、あれ」    指を絡めて握りしめられる。   「断ったよ」 「なんでっ」 「なんでって、逆になんでさ」 「だっ、だ、だって、でも……」    頭の中がぐるぐるする。考えが全然まとまらない。寒いのに汗がだらだら噴き出して、冷え切った体をさらに冷やした。樹は優しく微笑んで、手を握ったまま俺の隣に腰掛けた。   「手、冷たくなっちゃってるね」 「べ、つに、平気……」 「ダメだよ。霜焼けになっちゃうぜ」    手袋を片方外し、俺の左手に被せる。右手も外そうとするから断った。   「……お前が寒いのは……困る……」    樹は「そうだね」と笑った。手袋の代わりに、その大きな手で俺の右手を包んで、優しく摩ってくれた。気持ちがちょっと落ち着いた。   「あったかい?」 「……ん」 「ねぇ、悠ちゃん。よく聞いて。オレは、どこにも行かないよ」 「……そんなの……今更……」 「だって、オレ」    真剣な眼差しにどきりとする。   「悠ちゃんが好きだから。だから、ずっとそばにいるよ」    凍て付く寒さが瞬く間に弛んだ。胸の奥に火が灯る。空洞が光で満ちていく。狂っていた歯車が噛み合い、錆び付いていた時計の針が動き出す。体がぽかぽか火照って、それなのに、なぜか微かに震えている。こんな感覚は初めてで、初めてなのに懐かしい。   「悠ちゃん……?」    顎に手を添えられて、樹のびっくりするほど整った顔面が迫ってくる。キスされる、と思って咄嗟に目を瞑ると、温かいものが頬を流れた。   「ご……」 「?」 「ごっ、ごご、ごめんっ! な、泣かせるつもりはなくてっ……、で、でもオレ、ほんと、本気で、一生大事にするって決めてるし……っ!」 「は……?」 「えっ……?」    霞む視界に、樹の間抜け面が揺れる。かっこいい顔が台無しだ。俺は思わず吹き出した。   「えぇ? な、何だい、急に。何笑ってるの?」 「だってお前……ふふ、変な顔」 「んなっ、ゆ、悠ちゃんだって」    むにん、と頬を包まれ、むにむにと揉まれた。樹の温かい手もふわふわの手袋も、冷えた頬に気持ちいい。   「キスしていい?」    落ち着いていた心拍数が再び跳ね上がる。俺は小さく頷いて、ぎゅっと目を閉じた。今度こそ、ほんのりとレモンが香った。
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