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看板も何も掲げられていないので本当に民宿なのか甚だ怪しい民家の玄関を潜れば、確かにそこは民宿だった。元々民家だったであろう所を頑張って改装して民宿にしました感がヒシヒシと伝わってくる。
「ごめんくださーい」と声をかければ、奥から可愛らしい老婦が現れる。宿泊の意を伝えればあれよあれよと話が進み、気が付けばあっという間に受付が済んでいた。このまま指定の部屋へ向かうだけなのだが、そういえばこの人にはまだ聞いてないなと思い出した魚塚はボディバックの中身を漁る。少ししわくちゃになってしまった石橋彩音の写真を宿の老婦に見せて、見覚えがないかを聞いてみた。しかし老婦は申し訳なさそうにしながら首を横に振るだけで、特に進展は無し。魚塚は微笑みを貼り付けるも、内心では肩を大きく落としていた。「石橋彩音はこの宿に泊まっていない」という情報は得られたんだと自分に言い聞かせて、魚塚はようやく部屋へと向かったのだった。
宿で出された簡単だが新鮮な海鮮に舌鼓を打ち、部屋に戻れば翌日の予定を立て、気がつけば日がどっぷりと暮れていた。障子窓の向こうは開けなくとも闇色に染まっているのが嫌でもわかる。
魚塚は慌てて入浴へと出向き、一通り汗を流して今はその帰り道。一日の疲れや汗が全てお湯へと流されたおかげで明日へのやる気が満ち溢れ、体をホカホカさせながら軽い足取りで部屋へと戻っていた。
ルンルンと鼻歌でも歌いそうな雰囲気を醸し出していると、魚塚の部屋の前に人影が。宿の主人が自分に何か用でもあるのだろうかと彼女は足を速めるも、それはすぐに止まることとなった。何故なら部屋の前にいたのは、あの時バイクの横にいた薄い色のサングラスをかけたあの男だったからだ。魚塚の顔がこれでもかと派手に歪む。
「ゲッ」
「あ、おかえりウォッカちゃん」
「何でいるのよ」
「何でって、部屋隣だし」
相変わらず締まりのない微笑みを携えながら、男は己が前に立っているドアのすぐ横のドアを指す。折角いい気分になっていた魚塚も、気分は駄々下がり。男は「オレは霧島利八。よろしくねー」なんて気軽に自己紹介するも、魚塚はよろしくするつもりはさらさらない。
こんな男無視して部屋に戻りたいが、ドアの前を男が塞いでいる。また無理矢理にでも押し退けようかとも考えたが、そんな気力は魚塚には残っていなかった。魚塚は呆れと嫌味を混ぜ込めたため息を盛大に吐き出した。
「……それで、あんたは何の用があってそこにいるのよ」
「あれ? ウォッカちゃんってあだ名、嫌うかと思ったのに」
「昔から言われてるから慣れたわ」
「ちぇー、つまんないなぁ」
ようやく男が笑顔以外の表情を見せる。その心底つまらないと言わんばかりに唇を尖らせ、後頭部で手を組む姿に魚塚はさらにイライラを募らせた。
「あんたは何がしたいのよ」
「うーん、強いて言うなら嫌がるウォッカちゃんの顔が見たいかな」
「――っ。あんた、性格最低ね」
霧島の語尾に星をつけそうな物言いに、魚塚はその整った顔に拳をお見舞いしたい衝動に駆られるもどうにか抑え込む。右手は相変わらずギリリと力強く握られているが……。
「……それで、本当に何の用なのよ。体目当てなら近所迷惑なレベルで叫ぶわよ」
「違うチガウ。どうせここはウォッカちゃんと俺だけしか泊ってないし、楽しいことしようよ」
「はぁ? 」
何言ってんだこいつという気持ちを一ミリも隠さずに睨みつける魚塚。だがもうわかる通り、霧島は意に返さず。それどころか手に持っていたものを霧島は彼女に見せつけた。魚塚は睨みを効かせたまま手中のそれが何なのか凝視すると、アルミ缶が二つ。表のラベルには「BEER」と書かれており、晩酌ないし酒盛りのお誘いだと彼女は察した。
「(よくもまあ、初対面の人に酒の誘いができること……)」
「あれ? ウォッカちゃん、もしかしてアルコールもダメ? 」
「いやもって何よ、もって。ビール一缶くらいなら大丈夫だから」
「そ、よかった」
差し出されたビールを素直に受け取れば、霧島は満足そうに笑った。
アルコールそのものは魚塚も嫌いではない。しかし今までの経験からそこに異性が絡むと、どうしても警戒してしまうのが彼女の悲しい性。
「それで、私を酔わせて何を聞き出すつもり? 」
「ヤダなー、別になーんも聞き出すつもりはないよ」
「……怪しい」
「イヤ、ホントだってホント。どうしたら信じてくれるん? 」
「そうね、今までのあんたの対応に答えがあるわ」
「えー……」
霧島のちょっと拗ねた表情に、魚塚は内心ちょっと笑う。子供っぽいところがあるなとは思っていたが、こんなところまで子供っぽいのかと彼女は少し微笑ましく感じたのだ。
「ああ、でも」
しかし男の子供っぽい拗ね顔は束の間、すぐに笑顔へと戻る。それもいつもの、面白いおもちゃを見つけた時の悪戯っ子のそれだ。
「ウォッカちゃんと怖ーい話をして楽しみたいかな」
「バカなの? 」
バチコーンと盛大にウィンクを決めながら、本日二度目のお化けポーズを取る霧島。これには流石の魚塚も堪忍袋の緒が切れる。何故こんな遅い時間に、初対面に等しい気に食わない男と大嫌いな怪談なんざせねばならないのか。魚塚は理解に苦しんだ。
もう付き合ってられんと魚塚は就寝を促してくる己の体に鞭を打って、出来うる限り男を押し退ける。霧島は再び「おっと」と零してドアの前から離れるも、大して気にしていない模様。魚塚は貰ったビールをそのままに、ドアノブに手をかけた。
部屋に入る直前、魚塚は肩越しに振り向く。
「……霧島利八、と言ったかしら」
「ん? 」
「金輪際、私に関わらないで頂戴」
拒絶の意を伝え、魚塚は自分に充てられた部屋へと消えていく。本当ならば怒りに任せて勢いよくドアを閉めたいところだが、借りている側の身でもあるし何より夜遅い。宿の主人を起こしては悪いので、そこはどうにか抑えて静かに閉めた。
そんな彼女のあべこべな行動に霧島は噴き出しながら、落ち込む素振りも見せずに「おやすみー」と閉じられたドアへ投げかけたのだった。
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