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天気雨と先輩
窓を叩きつけるような雨が不意に止んだ。秋の気まぐれな天気は猫の目のように変わる。
パソコンに伝票を入力していた永野萌が窓から外を見ると、低いビルの向こうに見事な虹がかかっていた。
「わぁ……、葛生先輩、見て、見て」
「うっさい」
隣で苦虫を嚙み潰したような顔でデータ整理をしていた葛生いずみが、振り返りもせずにピシャリと言った。
「虹ぐらいで呼ぶな、集中力が切れる」
よほど面倒な作業なのは、萌にもわかる。いずみは綺麗に巻いていた髪を両手でくしゃくしゃにした。
「あーっっ、もうなんで課長の尻拭いをしなきゃなんねえんだよ」
そのままぱたんとキーボードの上につっぷした。いずみの叫びは幸いなことに、萌しか聞くものがなかった。社員はみな営業に出払い、二人きりだったからだ。
萌はさっと椅子から立ち上がると、コーヒーを淹れていずみのデスクに置いた。
「……天気雨だろ。虹が出てるなら」
つっぷしたままのいずみが言った。
どんな姿勢でも、先輩は綺麗だなあ……と萌は素直に思った。
すらりと長いひざ下、しっかりくびれのあるウエスト、形の良いバスト、背中までの栗色の髪。
社の同じ制服を着ていても、いずみと萌では月と鼈。バービー人形とこけし人形だ。
「今日はさ、狐の嫁入りだよ。しかも大物カップルだ」
「え?」
いずみは顔をあげて、ニヤリと笑った。ふだんは眠たげな眼(まなこ)が大きくなる。
「吉狩野山の神野彦と石楠花山の瑠璃姫」
いずみはビルの向こうのふたつの山をそれぞれ指さした。
「くわしいですね」
萌が心底感心して胸の前で手を組むと、さも得意そうにいずみは人差し指ですっと鼻をさわった。
「ほんとなら、神野彦と結婚するのはわたしだったからね」
「は?」
文字通り狐につままれたような顔をして萌が首を傾げた。
「神野彦はわたしの婚約者、というか婚約狐だったけど、父が住んでいる山がどんどん削られていく、これでは生きていけないと一族郎党、里へ下りることに決めてさ。婚約は解消」
「こっ婚約? 一族郎党って、里ってここのことですか」
一気に押し寄せる耳慣れない、あるいは古めかしい言葉の数々に、萌は混乱した。
それよりなにより。
「……先輩は、狐なんですか」
萌の問いに、いずみは切れ長の瞳を萌に向けるだけだ。意味ありげな微笑み、チェックのベストとスカートという事務服を身に着けていてさえ漂う、どこか人離れした様子。
そういえば、いずみは生肉が好きだった。居酒屋へ行くと、やたらユッケだったり馬刺だったり、とにかく肉を食べる。それに犬歯が大きくて、まるで牙のよう……。
萌は思わず一歩後ずさった。
「取って食ったりしないわよ」
いずみはまた椅子に腰かけた。
「神野彦は泣き虫だったし、瑠璃姫はわたしの後ろをついてばかりいる子だった。三人して幼馴染だったけど、瑠璃が神野彦のことを好きなことくらいわたしにも分かってた」
頬杖をついていずみは窓の外をながめている。
「だから、これでよかったのよ」
いずみはつぶやくように言うと、長いまつげを半分伏せた。
「先輩」
人の姿をした狐のいずみに萌は同情した。ビルの向こうに見える虹は大きく色が鮮やかで、嫁入りを祝福しているように見えた。
いずみは本当は、神野彦のことが今でも好きなのかもしれない。父親の命令とはいえ、山を下りたことを悔やんでいるのかも知れない。
なんだか泣きたいような気持になったとき、昼休みのチャイムが鳴った。
「なーんてな、ウソー」
いずみはぱっと立ち上がると、万歳をして見せた。
「面白い、萌はからかいがいがある」
いずみは萌の鼻をちょんとつついた。
「ちょっ、先輩、ひどいっ」
顔を赤くして抗議する萌に、いずみはニヤリと笑って見せた。そのうち、外回りの社員がどんどん戻ってきた。
「お詫びにランチおごる。肉食おうぜ、肉」
いずみはハンドバッグを持つと萌の肩に手を添えてくるりと方向転換させた。
「もーっ、本気にしちゃったんですからね!!」
「はいはい、悪かった」
いずみはくしゃくしゃの髪を手櫛で直している。そうやって身なりを整えたいずみは、道を歩けば誰もが振り返る美女に戻る。
「先輩、やっぱり狐かも」
なんせ、化けるのがうまい。
いずみは、鼻で笑ってみせた。
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