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扉が、開かない。
ドアノブを握り、力を込めて引いてみる。びくともしない。ノブを左右に回してみる。ガチャガチャと音がするが、開く気配すらない。
そのまま押したり引いたりを繰り返して、ふと気付いてポケットを探る。ズボンの左右のポケット、尻ポケットと順番に手を突っ込んでみるが、鍵はどこにもなかった。
どこで落としたのだろうか。
困ったな、早くいかなきゃならないのに。
気持ちが急いていく。
落としたのだとしたら、どこでだろう。考え込みながら、とりあえず来た道を戻った。
黄昏がアスファルトを照らす。
日が落ちる前に、何としてでも探しださなければ。
大学から駅へ向かう道を、帰宅する学生たちの流れに逆らいながら歩いた。歩道の隅々まで見渡すが、鍵は見つからない。
街路樹の向こうに、青銅色の講堂の屋根が見えてきた。
歩道に落ちた銀杏の葉が、正門の中にまで吹き込んでいる。それを無遠慮に踏みながら、講義室までの道を急いで戻った。
入学してから半年あまりが経ち、ようやく広いキャンパス内を迷うことなく、行き来することができるようになっていた。
午後の最後の講義を聞いた教室へ向かっていると、前方から同じゼミの学生が連れ立って歩いてくるのが見えた。それとなく挨拶しようと思っている間に、こちらに気付くことなく通り過ぎていった。上げかけた手のひらを自嘲気味に軽く握る。挨拶するほどの仲でもない。そういうことだ。
昔から、要領は良い方だと思っていた。
これまで、学業も人間関係も、苦労することなくそれなりにうまくやれていた。だから、高校卒業間近になって突然大学受験を決めた時も、一浪して予備校にでも通えばなんとかなるだろうとたかを括っていた。志望大学にも、なんなく手が届くだろうと思っていた。しかし当ては外れた。
一年目の受験に失敗し、二浪してようやく志望する大学に合格することはできたが、さぁこれから新たなキャンパスライフが始まると意気揚々と乗り込んではみたものの、思っていたよりも現実はドライだった。
浦島太郎感、とでも言えばしっくりくるだろうか。
現役生と浪人生の壁は厚い。
入学式で似たようなスーツを着てパイプ椅子に座っている時からすでに、見えない透明な壁に隔たれているようだった。
まず、見た目や雰囲気に差がある。
一浪ですらこれほど明らかなのに、二浪ともなれば一目瞭然だろう。二年分の徒労が否応なく滲み出てしまう。
新しい環境での人間関係の構築が、これほど難しいと思ったことはなかった。
磁石のように周りの学生たちがそれぞれ、思い思いにくっついていく中、自分だけがたったひとり取り残された。まさに磁力に阻まれているかのように。
たまに話しかけられたかと思えば、よそよそしい敬語で、講義に必要なことを一言二言交わすばかりだった。
キラキラと輝く他人を尻目に、無気力な日々を過ごした。
講義を受けても、ただつまらない言葉の羅列を聞き流すだけの作業になった。何にも興味を持てず、卑屈な気持ちばかりが埃のように積もっていった。
思い返せば、自分の人生には常に、目的というものがなかった。ただ、時間を無為に消費するだけだ。
受験勉強をしていた時期だけは、目標が明確だった。だが合格してそれを失った。本末転倒だ。本来ならば、大学の勉強のその先に目標があるべきなのだ。それも未だ見つからない。
講義室のある建物の入り口には、もはや学生の姿はなかった。
日が落ちていくなか、急足で階段を登り、教室へたどり着く。
戸は開け放たれていた。
誰もいない室内へ足を踏み入れる。講義中に座っていた席に手をつき、椅子を引く。机の上はもちろん、椅子の下にもどこにも鍵は落ちていなかった。
予想していた分、落胆はそれほどでもなかったが、それならばどこで落としたのだろうと気持ちばかりが焦る。
その時、教室の前方の扉に、人影が見えた。
何気なくそちらを見遣ると、黒いパーカーのフードを頭からすっぽりと被った男が、扉から一歩下がった廊下に立って、こちらを見ているようだった。
薄気味悪い気がして、急いで後方のドアから教室を出た。男がゆらりとこちらへ近づく気配があったが、振り向かずに廊下を抜け、階段を降りて建物の外に出た。
遠くの空に黒い雲がかかって、よけいに日没を早めそうだ。
日が暮れる前に、鍵を見つけなくては。
そのことだけが胸中を占めていた。
正門を出て、どうするか迷ったが、駅の方へ向かうことにした。
大学の最寄りはメトロの駅だが、普段は隣接する私鉄の駅を利用している。
駅前には広いバスターミナルがあり、高架下をくぐり抜けた先に、居酒屋などが軒を連ねる繁華街がある。
駅前は、多くの人でごった返していた。
改札口には人だかりができている。
駅員が、数人の客を相手に何やら説明をしているようだ。改札上の電光掲示板を見ると、「人身事故により運行を一時停止しております。」という文字が繰り返し流れていた。
急いでいるのに、ツイてない。
電車は上下線とも完全に止まってしまっているようで、ホームからは諦めたような顔をした人々が改札を出て、バス停やタクシー乗り場へ移動していく。いずれも長蛇の列ができている。
帰宅ラッシュの時間と重なり、行き場を失ったたくさんの人が、駅前に呆然と立ち尽くしたり、うろついたり、はたまたこれ幸いと飲み屋へ流れたり、さまざまに動いている。
苛立つ気持ちを抑えながら逡巡していると、大きな声で騒いでいる数人の男子学生の会話が聞こえてきた。
「やべぇ、おまえ、見た?」
「マジであんななるんだな、バラバラに」
青い顔で口元に手をやっている学生が、スマホを見てさらに顔をしかめる。
「うわ、写真あげてるヤツいるよ」
「すぐ消されんじゃね」
「ふたり飛んだって。ひとりは巻き込まれて転落したらしい」
「マジか、えぐ」
しばらく電車は動かないとみて、彼らは駅の隣にあるコンビニへ入っていった。
投身自殺か。迷惑な話だ。
どうするか。落とし物がなかったか駅員に訊いてみようか。慌ただしく動き回る駅員に話しかけるタイミングを探したが、どうやら難しそうだった。
諦めて駅に背を向ける。
ふと、バスターミナルの人混みに目を向けて、背筋の凍る思いがした。多くの人々に紛れ、あの黒いフードの男が真っ直ぐにこちらへ顔を向けていた。片腕に、黒いボーリング玉のようなものを抱えている。
なんなんだ、あいつ。
講義室の時といい、明らかに自分を追ってきている、そう感じた。
男がゆらりと、こちらへ近づく様子をみせた。関わりたくない、瞬時にそう判断し、急いで駅を離れ、人波に流されるように繁華街へ足を向けた。
平日の夕刻だが、街は賑わっていた。鉄道の運行復旧まで時間をつぶそうと集まった人々が多かったせいかもしれない。
ぶらつく他人の肩をすり抜けるように急ぎ足で進んだ。
ふと、すれ違う人の中に見知った顔を見つけ、思わず立ち止まった。声をかけようとしたが、言葉がでてこない。
三年ぶりくらいだろうか。
明るく染めた髪をだらしなく肩まで伸ばし、無精ひげのまま気怠げに歩いている。右頬をあげ、常に嘲るように笑ってみえる顔は、少しも変わっていなかった。
歩み去って行く後ろ姿を見ながら、あいつはこの三年間、どう過ごしただろうと思った。相変わらず、くだらないことで笑いながら、怠惰な日々を垂れ流していたかもしれない。それとも、自らの未来を案じ、身を立て直したか。その後ろ姿からは、何の変化も感じ取れなかった。
自分の選ばされた道は、間違っていたかもしれない。わかっていながら、誰の背中とも比較できないもどかしさで、気が狂いそうだ。
中学、高校と、楽しいことといえば周囲から眉をひそめられるようなことばかりだった。
だが本当に楽しかったかといえば、そうでもない。ただの暇つぶしに過ぎなかった。酒も煙草も、やるなといわれるからやる、ただそれだけだ。
そういえば、犬を飼っていたな、ふと思い出す。
いたぶるためだけに手懐けた、くそ汚い犬。あいつは今、どうしているだろうか。
顔を踏まれ、便器の水を頭からかぶり、怯えた目でこちらを見てきた臆病な犬は、高校卒業と同時に解放されて、今頃は尻尾を振って喜んで、平穏な日々を過ごしているだろうか。
最初は、要領の悪いヤツをからかってやるくらいの気持ちだった。むしろ、友達がひとりもいないアイツに仕方なく構ってやっている、そんな憐憫にも似た思いすら感じていた。
従順な犬をパシリにしているうち、仲間のひとりが「躾」と称して暴力を振い始めた。
くだらないと思いつつ、反面、自然の摂理だとも思えた。その惰弱な目は、加虐心を煽るだけだ、そう教えてやっても良かったが、黙って眺めていた。
仲間が盛り上がっているところに水を差す必要はないだろう、ただそれだけの思いだった。
高校卒業を待つひと月ほど前、グループを抜けた。
仲間のうち数人が、窃盗事件で警察沙汰になったこともきっかけになったが、それよりも何より、ずっとこのままではいられないだろうという予感めいた杞憂があったせいだった。
親からはとっくに見放されていると思っていたが、「大学に行くなら金を出す」と言ってきた。それならばと、受験勉強を始めた。
どうせ行くのなら、名の通った大学がいい。予備校にも通い、最初の一年は勉強に熱中した。生まれてから今までで一番充実した日々だった。
しかしその年、志望大学に不合格となってからは、途端にやる気が失せていった。だがあとには引けない。やり切るしかない、その思いだけで次の一年を過ごした。
ここ数年、理由のない焦燥感に追い立てられてきた。いや、理由ははっきりしている。それを認めたくないだけだ。
視線をあげると、遠く見える都会のビル群よりも低く、マーコットオレンジのような夕日が沈みかけていた。上空は薄く藍色に染まり始めている。
鍵。
早く見つけて、扉を開けなくては。
どこで失くしたのか、見当もつかない。途方に暮れながらも、気ばかりが急いていく。
時間は迫っている。
念のため、後ろを振り返ってみる。黒いフードの男の姿はなかった。
再び、早足で歩き出す。
人の流れに逆らうように、繁華街を出た。
家路を急ぐ者、仲間と連れ立って飲み屋へ向かう者、さまざまな人とすれ違った。みな平凡で、平和ボケした人生を送っているのだろう。間抜け面が、縁日の屋台に並べられたチープなお面のようだ。
気が付くと、扉の前に戻ってきていた。
ドアノブに手をかけるが、やはり扉は固く閉ざされている。
周囲はすっかり暗くなり、遠い空の山際がわずかに橙色にみえるばかりだ。
早く、早くしなくては。
また道を戻るか。だが時間がない。
焦る気持ちで振り返って、足が凍りついたように動きを止める。黒い影が、ゆらりと動いた。フードの男が、暗がりからゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
「おまえ、何なんだ。なんで追ってくるんだ」
たまらず叫びながら、一歩後ずさる。男は構わず距離を詰め、おもむろにフードを頭から脱いだ。長い前髪の隙間から、血走った両眼がじっとこちらを見つめていた。
「やっぱ、覚えてないんだな」男は自嘲気味に笑った。
「ま、それもそうだろう。やったヤツはすぐに忘れる。だが、やられたヤツは、絶対に忘れない」
「どういう意味だよ」
男は長い前髪をかき分けた。暗く澱んだ目。その顔に、わずかに見覚えがあった。
「高校時代は三年間、世話になったなぁ」
「おまえ……」名前は思い出せないが、犬、その単語が浮かんだ。
「いまさら何の用だ。あとをつけやがって、消えろ」
「そんなことを言っていいのか?忘れ物を届けにきてやったっていうのに」
ほら、受け取れよ。そう言って、男は真っ黒な丸い何かをこちらへ投げてきた。それは鈍い音を立てて一度地面をバウンドし、ゆっくりと転がって足先で止まった。
どこも見ていない、虚な目。半開きの唇からは、舌がはみ出し、真っ黒な髪が地面を掃いている。
鏡を見ている、そう錯覚しかけ、そうじゃない、これは人間の頭部だ、俺の、顔。
ない。首から上を確かめようとした手が、空を切る。何度も手を振り回すが、あるはずの頭がそこにはなかった。
「はは、面白い踊りだな。おまえのそんな姿を見られるなんて、本望だ」
なんで、その言葉は発せられることがなかった。両腕がわなわなと震え出す。
「これがないと、扉が開かないんだ。探してたんだろ?」
男は、俺の頭をボールか何かのように足先で弄ぶ。
「今日という日を待ち望んだよ。死ぬなら、おまえを道連れにって、決めてた」
記憶が、押し寄せる。
電車を待っていた、駅、駅のホーム、突然、強い力で体を引かれ、宙に浮いた、その後は、そのあとは……?
「いこう。日が落ちる前に」
ガチャリ、音を立てて、扉は開かれた。
(了)
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