赤に惑う

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赤に惑う

あなたは嘘をつくと耳が赤く染まる。 仕事の帰りにたまたま綺麗な桜の木を見つけたから見に行こうと誘ってくれた時。上司の娘さんの勤め先が着物屋で、ノルマの為に浴衣を買わされたから花火大会にでも行こうかと誘ってくれた時。 急に蕎麦が食べたくなったと、木々の葉が美しく色づき始めた日に外へと連れ出してくれた時。近所の子供が自分たちに雪うざぎを作ってくれたみたいだって、少し恥ずかしそうにはにかんだ時。 不器用で、かわいくて、愛おしい嘘をつくあなたの耳は、いつでも決まって赤く染まっていた。それを見るのが楽しくて、嬉しくて。とてもとても幸せだと、私だけの宝物なのだと信じていた。 ああ、いつからだったのだろう。 「来週から後輩の指導を頼まれたから帰りが遅くなる」 「急な出張が入って参ったよ」 「今度の土曜日は朝から上司と接待ゴルフだわ」 あまり好きではない言葉で耳を赤く染めはじめたのは。それでもバカな私は信じていた。人間だもの。たまにはそんな日もあるって。信じて、縋って、見て見ぬふりをした。その代償なのだろうか。 取り返しのつかないところまで来てしまったのは。 ――その日は朝からついていた。目玉焼きを作ろうと割った卵が続けて双子で、星座占いはどの番組でも一位。昨夜までは朝から雨が降ると言われていたのに、カーテンを開けて目に飛び込んできた色は鮮やかな青。なにより、久しぶりにあなたが家にいてくれた。 たまには二人してだらだらと過ごしても良いし、この天気に乗じて何処かへふらっと遊びに行くのも良いな。ねえ、あなたもそう思うでしょ?ねえ、ねえ……お願いだからそうだと言ってよ。 「ごめん。他に好きな女性(ひと)ができた。俺と別れて欲しい」 あなた好みのカリカリの目玉焼き。今日は何をやってもとにかくハッピーだと宣うた星座占い。窓から差し込む光は痛いほどに眩しくて、一瞬、あなたの顔を隠してくれたから。だから、つられるようにしてぎゅうと目を瞑る。大丈夫、大丈夫。まだ、大丈夫。 あなたから貰ったお気に入りのエプロン。その紐をきつく握って深呼吸を繰り返した。嫌な冗談だ。私はこういう嘘は嫌いなの。あなただって知っているでしょう。でもね、今なら許してあげる。耳を赤く染めて「驚いた?」って言ってくれるなら。微笑(わら)ってくれるなら。許すよ。今までのことも全部。なかったことにしたいの――。 「…………っ、は」 そっか、もう嘘さえついてくれないのね。真っ白なあなたの耳を見て、漸く全てを理解した。不器用で、かわいくて、愛おしい嘘をつくあなたはきっと、今では知らない、別の誰かのもの。 ああ、陽が沈む。 広い部屋に独りぼっち。カリカリの目玉焼きは固く冷えてシンクのなか。でたらめだらけの星座占いを信じることは金輪際ないだろう。ふと窓の外を見た。清々しいほどに晴れ渡っていた空は、いつの間にかその色を青から赤へと変えて、数時間後の暗闇を招く。 「良いなあ」 白い雲の端が徐々に赤く染まっていくさまが、何故だか泣きたくなるほどに羨ましかった。二度と戻らない、私だけの宝物だった色。
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