涙のわけ

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今年初めての雪がちらついて、サユミは商業施設の建物の外へ駆け出していった。 ダンスを踊るようにグルグルと回る彼女の首もとで、白いマフラーが波を打ち、紺色のニット帽に細かい雪がまとわりついていた。 彼女は、息を弾ませ笑い声を小さく立てると、僕に「おいでよ」といって手招きをした。 寒がりの僕は、首を横に振り振りしながら、やむなく彼女の横に立つ。 建物の前の広場一帯は、昼間なのに、しんと静まりかえっていた。 彼女は、太陽が雲に隠れ灰色に沈んだ空を見上げるようにしている。そんな彼女の形の良い顎のラインと、淡いピンクのフリース姿に僕は見入っていた。 彼女はそんな僕を見るなり、突然抱きついてきた。僕は驚きと楽しさのあまり悲鳴を上げる。ちょうどその時、突然頬を刺すような冷たい風が吹き抜けた。それが僕の目に染み、涙がにじんだ。 その目を閉じながら、初めて恋人ができそうな手応えに、僕は長いあいだ待ちわびた暖かな感触をかみしめていた。 僕はこれまで生きてきたんだ、サユミと出会うために。そしてこれからを共に生きるために。 まだサユミと付き合う前の何気ないこの日のことを、僕はサユミと別れた後もずっと忘れずにいた。 サユミとの思い出の中で、ひときわ鮮やかな光景だったからかもしれない。 あるいは、結局僕らの心が一番近づいたときだったからかもしれない。 それはともかくとして、あれからほどなくして僕らは付き合いはじめた。 心を許したのか彼女は、僕に変に気を遣うことはなくなった。 それはいいのだが、30歳過ぎという年齢が先立つのか、彼女は夢から覚めたかのように、僕らが結婚してからどうなるかを今後直面するであろう現実に即して話すようになった。 住む場所、仕事、子育て、家事、そしてお金のこと。 僕らの会話が具体的な生活プランへと、グッとシフトしていった。 彼女は、特に謙遜を必要としないくらいの薄給で長時間労働が常態化した飲食業の職場にある僕に、転職を迫り、それら課題の解消を図ろうとした。 そして事あるごとに「男のあなたは35過ぎてても、のんびり構えててもいいのかも知れないけど、私は子どもが産める期限というものがあるんだからね!」と憤まんやるかたなしといった様子で、彼女は突っかかってくる始末だった。 うんざりしてしまった僕は彼女との結婚を決して明るいもの、温かいものとして見ることができなくなってしまった。 結局結婚って何のためにするのだろう。 僕はしきりに考えた。 一人で生きるより二人で支え合うから心強く、自分とは違う誰かのために生きることで得る充足感は何とも代え難いのだと初めは信じていたが、単なる束縛で、すっかり寒々しいものへとイメージが変貌した。 それでサユミが、僕の打ち込んでいる飲食店の仕事による給与や休日の問題、中小企業であることの不安定さに触れて、ヒステリックに騒ぎ立てたのを契機に、僕は彼女の元を去った。 それなら公務員か大企業の正社員の恋人でも見つけなよ、と言い捨てて。 僕は本当は、彼女に「一緒に頑張ろう」と言って欲しかった。 が、彼女はそうなる前から僕を見切っていたのだろう。決して僕を追おうとしなかった。 むしろ背を向けた僕の方が未練を覚えていたようだった。サユミは、初めて僕にできた恋人であり、僕はそれゆえに、それなりに愛着があったのだろう。 彼女とうまく行っていたときの思い出が、その後しばらくは毎日のように胸を去来した。 何度も、彼女に連絡を取ってやり直したくなったが、結局同じ結末しか見通せず、そのまま流されているうちに、とうとう二人で会う機会が一度もなかった。 そうして何カ月かすると寂しさのようなものが、ようやく薄れた。 同時に彼女を思い出すと苦みと疲れだけが漏れ出すようになった。 もう、それから20年近くになる。 人生80年だとしたら、あまりに時が経つのが早すぎて、呆然としてしまう。 再び、あの初雪の空の下でのことがフラッシュバックする。あのまま時間が止まれば幸せのままでいられたのだろうか。 「パパ、どうしたの?」 妻のマリカの声でふと我に帰る。「ん?」 「泣いているの?」 僕は言われて頬をこすると、指先が温かく濡れていた。 ダイニングテーブルの灰皿には吸いかけの煙草がある。 「たぶん、煙草の煙が目に染みたんだ」 それを聞くと向かいのソファに腰を沈める彼女は、あきれたように肩をすくめた。 「もう! 煙草なんかやめたらいいのに。百害あって一利なしと言うじゃない?」 「それは、一度も吸ったことのない人間の言い分だ」 「ほんと屁理屈を言わないと気が済まない人ね」 いつもそう言っては、ため息をついて見せる彼女は、どこかユーモラスだ。 「そんな僕を選んだ君のことが、ますます不思議になるな」 「あらあら、二言目には皮肉ですか」 「いや、頼むから愛情表現と言ってくれ」 マリカは眉を浮かせて笑いながら、陽気に首を横に振った。 僕もつられて肩で短く笑うと、おもむろに目を閉じた。 どうやらまた、煙草の煙が染みたらしい。
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