二

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      二

 その男は、東の果てにあるトツク帝国出身と己を紹介した。確かに彼のまとう衣服は異国情緒にあふれていた。透ける生地を幾重にも重ね、大きな袖と地を引く裾。さながら天から舞い降りた御遣(みつか)い。表情を読み取らせない澄んだ美貌が、雅やかな物腰をいっそう引き立たせていた。  王女という、違和感ある立場の義務として、アリシアは今宵の招待客たちと適当に話を合せ、乞われれば仕方なく一緒に踊っていた。  扉をくぐってきた途端目を引いたその男は、どこか冷めた目でこちらに視線を留めてはいたが、アリシアは素知らぬふりをしていた。  だが彼は、ひとの波がひと段落した頃、おもむろに近付いてきた。 「一曲お相手願えますか?」  それは、落ち着いているにもかかわらず、胸の奥深くを焦がす魅力的な声だった。  何故かは判らない。  アリシアは吸い寄せられるように、男の手を取った。  抗いがたい力を彼に感じた。  目を合せると、柔らかな眼差しの奥深くに底知れぬ闇が広がっている。その闇は貪欲で瞳に映ったものすべてを喰い尽くそうとするかのごとく、見えない触手を伸ばしている。重なり合う手のひらははじめから溶け合っていたかのようにぴたりと合わさり、僅かな隙間も作らない。背中にまわされた手、腰を支える手は、互いの存在を己と同化させようと引き寄せあった。  アリシアは瞬きも忘れ、目の前の男性ばかりを見つめた。  強烈に自分を支配するその正体を知りたいと思った。  彼女の思いを読んだのか、男は三日月のような整った唇をそっと寄せてきた。 「東方の使者は、お珍しいですか?」 「ええ。うまく言えないのですが、どこか……雰囲気でしょうか、違います。あなたは、いったい誰なんですか?」 「先程名乗りましたとおり、トツク帝国にてロチェスター領をあずかる、ただの一公爵です」 「トツク帝国……、確かとても遠い国ですよね。どうしてわざわざここへ?」  ロチェスター公爵が薄く笑みを刻んだのを、頬を寄せ合うアリシアは気付かなかった。 「それはもう。アリシア王女の美しさを拝見したいと」  アリシアは公爵の顔をまじまじと見返した。  彼の言葉と表情に、アリシアの中に広がっていた甘美な炎が現実という冷たい息吹によって吹き消された。 「それは、いいえ、嘘。違うわ」  アリシアは莫迦ではなかった。  エンフレート大陸にマルクの豪傑ぶりが知られると同時、その愛娘の自分の存在も広まることは承知していた。噂に尾ひれ背びれがつき、とんでもない形容をされるだろうという予測もついていた。  けれど、いくら深い眼差しを注がれても、ロチェスター公爵の眼差しが、言葉どおりアリシア見たさの好奇心からくるものではないと、直感が訴える。  彼の態度は、好奇心とは縁がないものだ。 「違う、とは?」  否定されたにもかかわらず、彼は顔色ひとつ変えない。アリシアは不思議と冷ややかなものを感じながらも、深遠な彼の目を見つめ返した。 「なにかを企んでいる目です」 「ほほう?」 「わたしに近付いたのは、ただの好奇心ではないでしょう?」 「姫はわたくしを買いかぶっておられる」 「誤魔化さないでください。なにをなさるつもりなんですか?」  こちらを見据える公爵の眼差しはぞっとするほど魅力的で、アリシアは目をそらしそうになる。彼がなにを企み、エルフルトにどんな思惑を持っているのか、見抜かねばならないのに。 「このわたくしが姫を誤魔化すなど。あなたとこうして言葉を交わすだけで、胸は千々に乱れております」 「嘘ね」 「どうして嘘を申し上げねばならないのです?」  公爵の言葉はアリシアを揺さぶる。彼の声はあまりにも甘美で、眼差しは非情なほど艶やかで、一瞬ごとに強烈にアリシアの胸に焼き付いてくる。 「それは、あなた御自身が知っているはず」  そう言うのが精いっぱいだった。  限界を切実に感じたとき、不意にロチェスター公爵が声をあげて笑った。  及び腰になったアリシアを、彼は強引に玉座のマルクの前に連れてゆく。  まわりの者たちは、異国人の突然の輪を乱す行動に咄嗟に反応できなかった。  マルクはやや不機嫌そうに太い眉を寄せていた。  アリシアの視界の隅で、クラウスが一歩足を踏み出すのが見えた。  ロチェスター公爵は片足を引き、王の前で(ひざまず)いた。成り行きが見えず、ただぼんやりとその横で立つことしかできないアリシア。 「太祖(たいそ)、マルク王よ」  透き通った声は、不遜な響きを持っていた。 「どうやらわたくしは、アリシア姫に恋をしてしまいました」  どよめきの中アリシアは瞠目し、視線を公爵に落とす。クラウスは不届きな公爵に詰め寄ろうとするが、すぐそばの父親に制せられた。 「是非とも我が妻に迎え入れとう存じます」  平然と言葉を紡ぐ公爵だけが、騒然とする広間の中、時を止めた彫像のごとく浮いていた。  普段なら怒鳴り散らすアリシアだったが、何故だか今日に限ってなにかに塞き止められて言葉が出ない。 「ロチェスター公爵と、言ったかな」  張り詰めた場の空気を、間の抜けた声が割った。  公爵は肯定の意をこめて、頭を深く下げる。 「そなたがこのアリシアに心奪われるのは当然であろう。その恋心を咎めるつもりはない。だが、アリシアはまだ18。結婚させるつもりはない」 「失礼ながら。姫はわたくしではなくあの者と結婚させると、そういう意味でしょうか?」  公爵は頭を上げ、視線をクラウスに流した。貴族たちの視線もクラウスに集中する。これまでマルクが明言しなかった問題に、異国の者が言及している。新たな緊張がアリシアたちの間を駆け抜けた。  マルクはどんよりした眼差しをクラウスに向けた。 「ディグニー侯か。あれはできた男だが、アリシアをやるつもりはない」  言葉に続いたのは数瞬の静寂からくる語尾の響きと、薄氷を踏み抜いたような危うさ。  アリシアの息が詰まった。  こわばった表情のまま、問い返すように父マルクを見上げた。  聞き間違いかと思った。  驚愕にそれぞれの顔を確かめ合う人々の胸の内を知ってか知らずか、マルクはのんびりとロチェスター公爵に視線を戻した。 「アリシアは誰にもやらぬ」  公爵はもったいぶった表情を浮かべた。 「どうやらここに集っておられる方々は、姫のお相手にディグニー侯をと、考えておられるようですが? 彼は、わたしの恋敵となりうるのですか?」 「ロチェスター公爵よ。遠路よりはるばるお越しくだされたが、あなたの望みをかなえるつもりは毛頭ない」  広間に、言葉にならない不安が広がってゆく。  クラウスは顔色を失い、ただただ茫然と立ち尽くしていた。  マルクの言葉は、クラウスの理解を超えていた。 「アリシア王女への想いに、この胸の内を激しく焦がしていてもでしょうか」 「なにを言ってもだめなものはだめだ。アリシアはな、誰にもやらぬ。そう、たとえ神が妻問いに来てもだ」 「お父さま!」  無茶苦茶な父に、アリシアは声を荒げる。  クラウスとの仲を認めてもらえないだなんて。  発せられた言葉から、マルクは奥深い政治的なものを考えているわけでもなく、ただ自分勝手な思惑でアリシアを我がもとに留めようとしているだけだと知れた。  大陸一の豪傑と謳われた父。戦国の世において心底尊敬していた。けれど、エルフルトの王となってからの怠惰な生活、そしてこの発言。  心が、父から離れてゆく音がする。 「その言葉、(まこと)にございましょうか?」  公爵の硬質な声がマルクに問う。 「嘘偽りない真実だ」 「本当に?」 「本当だ。二言はない」  きっぱり言い切るマルクの前で、ロチェスター公爵はにやりと笑みを浮かべ、いきなりすっくと立ち上がった。  立ち上がりざま、腕を大きくマルクに差し伸ばす。白いしなやかな指が、まっすぐにマルクを差す。  突然のことにマルクは目を丸くさせ、口をぽかんと開けた。  国王が他国の貴族ごときに指差されているというのに、どういうわけか側近たちは僅かも動かない。アリシアも目の前の男を呆然と見やることしかできなかった。  あまりにも彼の仕草が雅やかで美しく、高尚なせいもある。 「しかと聞いたぞ」  一瞬前までのロチェスター公爵の声ではなかった。もっともっと深い、身体の底を震わせる恐ろしさをはらんでいた。  マルクの身体が玉座で小さく跳ねた。その様子を、容赦ない鋭い眼差しで()めつける公爵。 「神にもやらぬだと? たいした自信ではないか。たかが野を駆ける一介の武人が偉そうに」  横柄な物言いにもかかわらず、ロチェスター公爵のまわりにだけ、くぐもった空気を割り、天から光がさしている。そう錯覚してしまうほど、公爵の姿は毅然とし、またその白い衣が彼を神々しく惹き立たせていた。  ロチェスター公爵は何者か。  もやは広間に集う者すべてが、彼がトツク帝国の貴族ではないと気付いていた。  この中で一番の恐怖を味わっていたのは、やはりマルクであろう。しかし、さすがひとに豪傑と評せられるだけあり、そのすべてを表に出すことはなかった。 「一介の武人は王となったのだ。そなたが何者であろうと、わしがこの国の王であることに変わりはない。そのように愚弄(ぐろう)される筋合いなどない」 「愚弄と言うか」  公爵は透明な声で、けれど冷たく言葉を吐く。 「わたしも、人間ごときに愚弄される筋合いなどない」  え、とアリシアは公爵を見た。公爵はそれをちらりと受け止め、嫣然(えんぜん)と微笑みを返した。  その眼の深さに、足元の床が消え失せるかと思った。  すべてが消え去り、なにもかも失ってしまうような、不安しか起こさない冷徹な眼差し。  進んではいけない道を、父王は選んでしまったのだ。  が、彼女の直感は遅すぎた。  マルクに向けられていた公爵の指先が、ゆっくりとアリシアへと流れる。逃げようと思う暇もなかった。  宙を滑る静かな腕の動きはアリシアの思考を封じ、いつの間にか指差されるがままになっていた。 「アリス!」  近くにいるはずなのに、クラウスの声がとても遠い。  目が、公爵から離せない。声すらも、喉は拒絶している。 「アリシアになにを!」  詰問するマルクの声は裏返っていた。 「なにを、だと? 皆が認めた男の妻にもなれず、神さえも伴侶と認められない哀れな娘だ。このまま老いるばかりの父親のもとでひとり暮らさねばならぬのは、あまりにも無情ではないか」 「やめ、やめてくれ」 「いまさら遅い」  玉座を転がるように駆け下りたマルクを、公爵は冷たく一瞥する。 「これはお前への罰だ」 「罰……?」  そう言ったのは、マルクに駆け寄った王太子ランディだ 「お前は己の力を過信し、言ってはならぬことを口にした。しかもこのわたしの前で! 恥を知るがよい!」  傲然と言い放つ公爵に、アリシアはその正体を知った。 「ロジェ神……」  声にならない呟きに、公爵は振り返る。  マルクを責めたてた厳しい表情ではなく、切ない憐みの色がそこにはあった。 「そなたに罪らしい罪はないが、この男は傲慢という名の罪を犯した。償いは娘であるそなたにしてもらおう」 「なにを、そんな!」  誰かの声が聞こえた。誰なのか判らない。判るのは、頭に直接響いてくるロジェ神の言葉だけ。 「そなたは眠りに就く。そうだな、240年としようか」 「そんな……!?」 「お前は傲慢さゆえに一番大切なものを失うのだ。そのことをしかと心に留めておけ」  悲鳴のようなものが聞こえた。 「この娘の聡明さに免じて永久(とわ)の眠りを240年に縮めたまでのこと。娘に深く礼を言うがよい」  待って、という言葉が出てこない。  身体が酷く重たい。重たいのに、羽根のように軽くもある。  わけが判らなかった。  視界は暗転し、天地が判らない。  あたたかな腕に支えられたような気もしたが、硬く冷たい床に崩れ落ちた気もした。  ふっと意識が吸い取られる感覚を最後に、アリシアはロジェ神の言葉どおり、深く長い眠りの底に沈んでいった。  愛するクラウスの顔を、もう一度目にしたいと思うその前に。
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