二

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      二

 思い出すように、目が覚めた。  あたりは闇一色。  瞬きを繰り返し、暗闇に目を凝らす。  頬は冷たい空気を受けていた。  音は、耳に痛いほどに消え失せている。  どうして誰もいないのだろうと思いをめぐらせたとき、果てしのない静寂の向こうから物音が聞こえた。  そちらに意識を向けたとき、初めて自分が横になっているのに気がついた。  身体の下には適度な柔らかさがあり心地よかったが、何故、自分がここにいるのかが判らなかった。  一面の闇に、孤独を思った。  どれだけ身を固まらせたままの時間が過ぎたのか。  闇の向こうで、扉が開くような音がした。すぐにひとの気配と声が耳に飛び込んできた。 「……と……だな……こは? ……」 「見……らに……は…………ま……」 「気……そこに……て……へえ…………か」  ひとの声らしきものが聞こえてきたが、言葉の内容までは判らない。それでも、複数の男たちが近付きつつあるのは判る。  複数の、男。  知らず緊張が走る。  いったい誰なのか。  危害を加える者だろうか。  彼女は懸命に様子を窺った。  少しずつ周囲の様子が見えてくる。闇に目が慣れたせいではなく、男たちがこの部屋の燭台かなにかに明かりを入れたせいだ。  天蓋から垂れるカーテンは薄く、向こうを透かし見ることができた。  ああ、と気付く。  ここは自分の部屋だ。調度の配置が彼女にそう思わせる。  燭台の明かりが作った人影は、5つ。息をつめてその動きを見守っていたが、大柄で一番堂々とした影が、おもむろにこちらに近付いてきた。  身体が震えた。  そのままカーテンを開けられると思いきや、影はすっとその前で膝をついた。 「お目覚めでいらっしゃいますか。……アリシア姫?」  アリシアは知らないその声に、答えることができない。が、男の声は彼女の返事を待つこともなく続いた。 「時は満ちました。どうぞお目覚めくださいませ」  ぼんやりしていた頭の中が、その言葉によって徐々に澄んで形を現してゆく。  時は満ちました。  お目覚めください。 (わたし―――)  ロチェスター公爵の影が脳裏をよぎる。 「―――だれ?」  絶望が腹の底から吹き出すのを感じながら、アリシアは錆びついた喉から声にならない声を押し出した。 「だれ、ですか?」  第一声こそ空気が漏れただけだったが、あらためて問うた今度は、先程よりも多少は声としての体裁をなしていた。  カーテンの向こう、膝をつく影から感嘆の声が漏れ聞こえた。 「わたくしはエルフルト王国王太子、ヴォル・ローエル・エルフルト。こちらはエルフルト王国第十七代国王、ツェイラウム・グリルフ・エルフルトにございます」 「……」  沈黙をしか返せなかった。  知らない数字と、知らない名前。  なにが、自分を通り過ぎていったのか。  己の身に起こった事実に、アリシアは愕然とするしかない。 「……アリシア姫に、ございますね?」 「第じゅうなな代国王、って……」  言葉がうまく舌に乗ってくれない。これはなにゆえなのか、アリシアには判別がつかない。 「太祖、マルク王は既に亡くなっておいでです」  全身が粟立つ。 「姫。あなたは240年の眠りに就いておられたのです」  鋭い一撃が身を襲い、息も思考もなにもかもが奪われる。  残酷な宣告も、肌に触れる冷たい空気がこれは現実だと突きつける。  アリシアの(まなじり)から、不意に熱い液体が頬を滑る。  呆然と、天井を見上げた。  胸に、迫るものがある。  ロジェ神の言葉は、真実だったのか。  どれくらいが経ったのだろう。アリシアはいつの間にか部屋でひとりだけになっていた。  夢だったのかと一瞬思い、ではどこからが夢なのかと不安が襲いくる。そしてひんやりとした冷たい空気に、気付かぬうちに通り過ぎた時間の流れを思い知る。  そんな自分を認めたくなくて、アリシアは寝台から降りた。  素足が踏んだ床の絨毯は、奇妙な感触を返してくる。弾力がまったくなく、体重をかけると崩れてゆくのか脆く沈んでしまう。天蓋からのカーテンに手をかければ、留めてあった金具がほろりと外れ、盛大な埃と音をたてて床に落ちていった。  咳き込み、逃れるように寝台を離れた。  燭台の蝋燭がかなり短くなっている。燭の明かりに、胸が幾らか和らいでゆく。何気なく鏡を覗くと、カビやら錆に濁る鏡面に、げっそりと頬のこけた女がいた。己の姿と咄嗟に思い至らず、アリシアは驚きによろめいた。  そのまま尻もちをつき、じわじわと侵蝕している絶望に部屋を見渡した。 (わたしの部屋じゃない)  こんなにも古びてなんかいない。  こんなにも、闇に閉ざされていない。窓の向こうには眩しい陽光があり、夜闇に輝く星々があった。  絨毯についた指先は、臭い埃に埋まっている。たまらず力をこめると、長い毛足が抜け、指と爪の間に入り込む。  アリシアの部屋に似せて造られた別の部屋だ。  おそらく、240年の眠りから覚めたアリシアの不安を少しでも軽くさせるための。  だが、誰の発案かは判らないが、逆効果でしかなかった。発案者の意図が読めてしまうからこそ、よけいに孤独を思い知らされる。  胸の底に、考えたくないものがわだかまっていた。  アリシアはそこから目をそらし、クローゼットを開け、適当な上着を選ぶ。収められた衣服はほとんどが傷みきっていて使い物にならなかったが、かろうじて隅に追いやられていた防寒用のマントを羽織ることができた。父が王国を築く以前、まだ戦国の世のときに使っていたものだ。  肩にかかる懐かしい重みに、乾いた笑いがこぼれた。  アリシアは少し迷ったあと、いまだ力が入りきらない足でよろめきながら扉に向かった。  扉は思った以上に重く、彼女ひとりの力では開けられなかった。扉と奮闘するアリシアに気付いたのだろう、向こう側から誰かがそっと開けてくれた。  面長の顔が見えた。  暗がりの中にあってもなお、記憶のどこにもない知らない顔だ。大丈夫だろうか。だが、この人物の助けがなければ、自分はここから出ることがかなわない。  隙間から差し伸べられた手にアリシアは己の手を重ね、身体を引きずりだしてもらった。  やや離れたところから聞こえてきた溜息に目を転じると、マルクと同じくらいの年齢の男性が、こちらをくいいるように見つめている。  あからさまな視線に嫌悪を覚えたが、恰好からして彼が『第十七代国王』なのだろう。 「おお。偉大なるロジェ神に栄光あれ」  その男、国王は、感極まったのか言葉を漏らした。 「お気をつけて」  頼る腕の声は、おそらくはヴォルとか言った王太子のものだ。  思慮深い眼差しが印象深い。知らずじっと見つめてしまったが、護衛らしき男が動いたとき、視界に見慣れぬものが飛び込んできた。  それが白骨死体だと気付いたアリシアは、ヴォルの腕の中、反射的に身を固くした。 「姫。怖がってはあの者が不憫です。彼は扉を護り、そのまま死を迎えたのかと」 「とびら?」 「この部屋の扉です。あなたの眠りをずっと護っていたようです」  荒ぶる戦国の世、アリシアはマルクの娘というだけで、辣腕の武将隊に守られてきた。彼らは命を散らし、ただひたすらに彼女を守った。  王国が築かれたあとも、自分のために命を(なげう)ってくれる者がいたのか。アリシアは重たいものを感じた。  寂しい思いを抱き、アリシアはヴォルから離れた。背中に追いすがるようにヴォルの腕が伸びたが、無理に引きとめられることはなかった。  ひたひたと素足に冷たい床が鳴る。  いまにも崩れそうな白骨の前で、アリシアは膝をついた。床についた膝から、どっと体力が流れ出そうになった。それでも、自分を守ってくれたという遺体を間近にしたかった。 「……?」  視線の先、白骨の首に、どうしてだか見慣れたものを見つけた。  ぞくりと、心の臓が大きく胸を叩く。  嫌な予感だった。  どうして。  否定したくて、否定しなければならなくて、張り詰めた視線をアリシアは遺体に戻す。  息が、止まった。  骨だけとなった薬指に光るもの。  光るものが、ある。 「あか、明かり、を」  はやる気持ちに、言葉が追いつかない。  角燈を持ったヴォルが隣に腰を落とす。  強まった光のもと、アリシアは震える手で骨に引っかかるネックレスと指輪を確かめた。  どうして―――どうして見間違えようか。  激しい衝撃が―――衝撃をはるかに超えた巨大で空虚な一撃がアリシアを襲う。  身体が、内側から崩落してゆく。  腹の底から鋭い悲鳴がほとばしった。  悲鳴は地下空間のすべてを切り裂くがごとく轟き、その場にいる者たちから表情と言葉を奪った。  アリシアはそのまま、ヴォルの腕の中に倒れ込む。  この白骨化した遺体こそ、アリシアの愛するクラウス・ラグレーだった。  彼は最期まで、アリシアを護り抜いたのだ。
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