【第三章】 一

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【第三章】 一

「クサっておいでですね」  財務省からの書類を手に(うな)るヴォルに、側近のラデューシュが呆れる。  ヴォルは緑の瞳を上げた。 「ここ3ヵ月の決算の凄まじさを見れば、誰だって脱力するさ」  言って、支出が倍になった報告書をラデューシュに掲げて見せる。 「ほほう。確かに、この数字はすごいですねぇ」 「感心している場合か」 「ですけど、なんとかなるんじゃないんですか? 民にもう少し頑張ってもらうとか」  ヴォルは眉を憤りの形にさせる。 「これ以上彼らに負担をかけさせられるか」 「まさかわたくしの棒読みが通じませんでしたか」 「棒読みでも不謹慎だ。まったく。もう少し期待のできる姫だと思ったのに……」  ヴォルはぎりりと歯を食いしばる。  アリシアが考えなしの貴族同様、毎日遊びふけるのは想定外だった。  曖昧な態度、言葉を憤り、目にうるさい衣装に眉をひそめていた。荒ぶる戦国の世を生きてきた女性だ。建国精神を身をもって知る姫。現代とは違う視点を持っていると、腐りきったエルフルト王国に新たな風を呼び込んでくれると、そう思っていた。  買いかぶりすぎていた。 「彼女のせいで国庫が喰い潰されてしまう」 「本人もまわりも楽しんでいるじゃないですか。そこまで神経質にならなくとも」 「ならないほうがおかしいんだ!」 「殿下。もっとおおらかになってくださいよ。彼方(かなた)に広がる果てなき夜空のように。天は澄みきり、僅かの穢れもございませんよ?」 「悪いがおれはひとに踏みつけられるだけの大地となって、この国を支えていかねばならんのでね。お前みたいに風に流される雲のようにはいかないんだ」  ラデューシュは心底呆れきった表情になった。 「頭の上からきのこが生えてきても知りませんよ。たまにはぱーっと息抜きでもしてくださいよ。仕事が生きがいだなんて、王太子という身分でなかったらもてませんよ?」 「お前たちがそんなだから、おれが必要以上に駆けずりまわらねばならんのだろうが」  本来なら部下がやることも、享楽に溺れる風潮のせいで、ヴォルが自ら動かねばならない。憎まれ口を叩きながらも付き合ってくれるラデューシュには、本当のところ感謝している。 「とにかく、この数字はどうにかしなければな」  再び報告書を前に唇を引き結んだとき、扉を叩く者があった。入室を許可すると、転がるように現れたのは、青い顔をしたアリシア付きの侍女だった。 「どうした」  侍女は荒い息のまま言った。 「アリシアさまのご様子が……!」  ヴォルは溜息ともつかない息を吐き捨て、うんざりとした顔を隠しもせず席を立った。  カレスがどこにも見当たらないと気付いたのは、ノニグール伯爵主催の夜会の用意をしていたときだった。昼近くに起きたときも、正餐(せいさん)のときもいなかった。どこかに隠れているのだろうと、胸の奥の不安から目をそらしていた。けれど、日が傾き、あたりが薄暗くなっても、愛猫の姿はどこにもなかった。  闇が部屋に忍び込むように、アリシアの胸に暗い思いが影を伸ばしてきた。これまでずっと封印していたものが、脆く砕け散ってゆくのが判る。 「カレス! カレスッ!」  猫を呼ぶ声は、悲鳴となっていた。  叫んでも、背中から忍び寄る恐怖の魔手を振り払うことができない。 「どこにいるのカレス、返事をしてッ!」  寝台の下、箪笥の下、引き出しの中、カーテンの裏や上、シャンデリアの上も探した。暖炉の中さえも調べた。  しかし、猫の姿、声すらもない。 「アリシアさま、猫は気ままな生き物です。きっと春の陽気に誘われ、夏を追いかけているのかもしれませんわ」  侍女の呑気な声は、アリシアを落ち着かせるどころか、逆に不安を煽りたててしまう。  孤独が襲ってきた。  世界中が自分から離れてゆく、強烈な疎外感。  いなくなった猫。  すべてに置いていかれる自分を、肌が感じ取っている。 「―――」  目の前に、ロチェスター公爵の姿があぶりだされるようにして鮮烈に現れた。  ずっと忘れていたはずの遠い過去が、恐怖とともに再現されてゆく。 『そなたに罪はないが……』 『アリス!』  張り詰める舞踏の間。崩れる自分。頼りない身体。暴言を吐く父。神。  たくさんの出来事がどっとよみがえってくる。  そして―――。 「クラウス……」  暗転した闇の中で(うずくま)るもの。  胸元に垂れる指輪とネックレスが、急に重たくなった。  闇の中、たったひとりだ。  ぼんやりとよどんだアリシアの目が、闇にひそむ白い骨を捉え、はっと見開かれる。 「―――あああああッ!」  悲鳴をほとばしらせたアリシアは、糸が切れるようにその場に崩れ落ちた。
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