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 その日は雨が降っていた。しかも、結構な大粒の雨で、店の前を通る人はみんな大きな傘を差していた。店のドアは閉じていたけれど、ザーザーという激しい雨音はフロントにも響いてきた。  そして、この日も塩嶋は暇をしていた。こういう日は雨宿りに店を利用する人で客が若干増える傾向にあるが、なぜかこの日は例外で、レジはもう二時間近くだんまりを決め込んでいるところだった。  じめじめした空気が店の中まで浸食して、塩嶋がその日何回目かの欠伸をしたとき、久しぶりにドアが開いた。ありがたいことに来客だった。  店に入ってきたのは高校生の女の子である。なぜ学生証の提示もなしに分かったかというと、近くの高校の制服を着ていたからだ。しかし、その彼女はなぜか傘を持っておらず、頭の先から足許のローファーまでびしょ濡れだった。さっきまでつるつると綺麗だった床のタイルに水たまりを作った。 「あの、すみません。雨が落ち着くまで、フロントで雨宿りさせていただけませんか?」  彼女は店に入るなり、塩嶋にそう訊いた。  塩嶋はドア越しに外を見た。激しい雨はアスファルトの地面を叩きつけるように降り続いている。これでは当分、止みそうにない。それに、今はお客様もあまりいない。店の売上を考えると決して良い状況ではないが、雨宿りを許してあげるには好都合だった。 「はい、かしこまりました。それではそちらのベンチにお座りください」  塩嶋はフロントの正面に置かれたベンチを勧めた。本来は客が部屋の空きを待つスペースである。  女の子は勧められるままにベンチに腰を下ろすと、濡れた鞄からハンカチを出して自分の体を拭き始めた。ところが、小さなハンカチで済むような程度ではなく、気休めぐらいにしかなっていない。  塩嶋は何だか可哀想な気がして、店の奥からバスタオルを持ってきた。 「お客様、もしよろしければ、こちらをお使いください」  塩嶋は彼女の前に膝をつき、バスタオルを差し出した。彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐにありがとうございます、と受け取った。そして、バスタオルを頭から被って髪の毛からガッと勢い良く拭いていった。  しかし、どうして平日の真っ昼間に高校生がこんなところに来たのだろう。学校の創立記念日とかで休校なのかもしれない。それなら、もっと同じ制服の高校生がうちを利用してもいいはずだ。まったく、うちの店はどれだけ広告していないんだ。塩嶋は勝手にそう思って、呆れて思わず頭をカクっと落としてため息をついた。  そのとき、コトコトコトと女の子の方から音がした。塩嶋はふと顔を上げると、床にはキーホルダーが転がっていた。何のキャラクターかは分からない。鞄を拭いたときに落としてしまったようだ。塩嶋はフロントから出て、それを拾い上げた。 「お客様」  塩嶋はキーホルダーを彼女に渡した。近くで見ても知らないキャラクターだったが、可愛らしかった。 「ありがとうございます」  女の子は丁寧に両手で受け取ると、すぐに鞄に付け直した。  塩嶋が軽く一礼をして下がろうとすると、女の子がポツリと言った。 「良かった」 「え?」  塩嶋は思わず彼女を見た。彼女は愛でるようにキーホルダーを指の腹で撫でている。 「大切なものなんですね」  塩嶋がそう返すと、女の子はにこっと笑って、はい、と答えた。 「好きな人から貰ったんです」 「好きな人?」 「はい。クラスで一番かっこいい人です。バスケ部のエースで、いつもシュートを決めています」 「それは素敵ですね」 「はい、とても。その人から貰ったんですよ、このキーホルダー。クレーンゲームでいっぱい取れたからって」 「へえ、クレーンゲームもお上手で」 「何でもできる人だから」  そう言う彼女は幸せそうに口角をにっと上げた。これ以上、言葉を聞かなくても彼女がどれだけその相手を好きかよく伝わってきた。塩嶋は自分までうきうきするような気分になった。  しかし、彼女の顔は急に曇った。 「でも、わたし、嫌いなんです」 「何が?」  やっぱりどれだけ好きな人でも、嫌いなところの一つぐらいはあるものだ。 「自分のことが、です」  女の子は何のためらいもなく、そう答えた。意外に思った塩嶋は目を丸くした。 「え?」 「だって、気持ち悪いじゃないですか。一人の人を追いかけて、にやにやして。バスケ部でもないのに試合を見に行ったり、こんなキーホルダー一つでうきうきしたり、ちょっとした言動に泣いたり笑ったり。とても鏡で見てられない」  彼女は本当に嫌そうに顔を背けた。 「たかが他人なのに……」  もはや、彼女は泣きそうだった。 「どうしてそんな風に思われるんですか?」  塩嶋は口を挟まずにはいられなかった。 「素敵じゃないですか。恋をするのは」 「え? もしかして、店員さんも今好きな人が?」 「今はいません。昔の話です。僕も同じでした」 「同じ?」 「はい。昔と言っても大して昔ではないですが。高校生のときです。僕は一人の人を好きになりました。その人もスポーツをやっていて、部のエースでした。僕も試合に行って観客席で誰よりも声を張って応援したんです。貰ったものもありますよ。僕は消しゴムでしたけど。授業受けてるときになくしちゃって、そのときどうせ貸すならあげるって言われました。素敵な人でしょう」 「はあ……」  女の子は戸惑いつつ相槌を打った。 「その人を想うことはとても楽しかったんです。学校で授業を受けててもこの問題はあの人だったら簡単に解くんだろうなとか思ったり、買い物でちょっとお店を見て回ってててもあの人こういうの好きだったなとか思ったりして。毎日、何かしらのことでうきうきしました。何でもない日常が刺激的でした」  塩嶋は本当に楽しそうに話した。 「あるとき学校の廊下でその人とすれ違って、目が合ったんです。相手の方はやっほーって軽く手を振ってくれたけど、僕は緊張して何もできなくて。でも、嬉しかったからついつい口許が緩みました。恥ずかしくて、その人が通り過ぎてすぐにお手洗いに入りました。そこでふと鏡で自分の顔を見ました。頬が真っ赤で、顔がほころんでいて、正直見ていられない顔でした。そのとき、感じました、自分が気持ち悪いって。お客様と同じように」  女の子は小さく声を出した。驚きの声だ。 「でも、そのあとすぐのことでした。どんなときだったか、その人が教室で恋愛の話をしていたんです。『恋をしている人は一段と魅力的に見える。人のために頑張るのは人をきらきらさせるんだ』。その人がふとそう言いました。全然そうじゃないのに、僕に言われている気がしました。好きな人の言葉はすごいですね。それから気持ち悪いってまったく思わなくなって、一変、恋をしている自分がきらきらしてるって思えて好きになりました」  塩嶋はまた楽しそうに笑った。 「それで、その人とはどうなったんですか?」  女の子は前傾姿勢になってそう訊いた。いつの間にか塩嶋の話に引き込まれていたのだ。 「卒業まで何もありませんでした。実は、その人には別に好きな人がいて、この出来事のあとすぐにその人と付き合い始めたことを知りました。あのときもきっとその人の話をしていたのだと思います。だから、僕の完全なる片想いでした。だから、お客様も」  塩嶋は女の子の方に向いた。悲しい思い出のはずなのに、彼の表情はなぜか晴れやかだった。 「気持ち悪くないですよ。むしろ、きらきらしていて素敵だと思います。どうぞ、そのお気持ちを大切に」  塩嶋はまるで優しく説くようにそう言った。  そして、そのころにはさっきまでの大雨が嘘のように、雲一つなく空は晴れていて、彼女は「また来ますね」とだけ言って店をあとにした。
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