01 事件と悪夢

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01 事件と悪夢

 走っている。荒く息を吸い込む度、冬の凍りつく空気が喉と肺に刺さるようで咳き込みそうになる。それでも咳き込んでいる場合ではない。立ち止まるわけにもいかず、暗闇とも言える森の中を走る。喉が渇いて張り付くような感じさえする。呼吸はもう喘ぎに近い。  苦しい、つらい、逃げなきゃ、でも、もう。  やめとけばいいのに後ろを振り向いて、月明かりもないのにこちらに向かってくる男がはっきりと見えた瞬間、何かにつまずいて顔から倒れ込んだ。柔らかく冷たい土のおかげで衝撃は少ない。恐怖が勝って悲しくはないが、呼吸がつらくて生理的な涙が滲む。  でも立たなければ。あの男が。  拳を握りしめて地面を押すように体を起こした。膝をついて立ちあがろうとしたそのとき、肩をつかまれる。衝撃。また顔から倒れ込んだと思ったが、いつのまにか仰向けにされている。オレの上にフードを被った細身の男が跨っていた。頭の中が揺れているようだ。痛い。さっきの衝撃は男に殴られた衝撃だったらしい。 「なんで……」  思わず声が漏れる。  なぜ男に追いかけられているのか。なぜ男はオレを殴ったのか。なぜオレはこんな森の中にいるのか。なぜ……。  暗闇に慣れたはずの目を凝らしても、フードのせいか男の顔が見えない。いや、フードのせいではない。顔があるはずの部分が不自然に暗く、オレには見えないのだ。  男は跨ったまま、オレの首に両手で触れた。男の手は冷たい。ほとんど力が入ってないため苦しくはないが、オレに対する殺意があるのは分かる。男はいつでもオレを殺せる。そして満身創痍で鈍く痛む頭さえ持ち上げられないオレは抵抗すらできない。  なんで。  その言葉を口にする前に、男は息を呑んでオレの首に添えていた手に全体重をかけた。  気道が潰される。頸動脈が圧迫されて血流が滞る。残された力で首を絞めている男の手を掴むが、びくともしない。苦しさすら分からなくなっていく。男が唸った。  どうして。なんで。どうしてオレは殺されそうになっている。なんで、どうして、どうして。  暗くなっていく意識の中で男の悲痛な叫びが聞こえた。 *  *  *  意識が浮上する。目を開けると白い天井が見えた。「知らない天井だ」と言えれば記憶喪失の人間としては格好もついたのだが、残念ながらここ数日で見慣れた病院の天井だ。  夢の中ではあれだけ苦しかったのに、今はもう、首を絞める男の手も吸うたびに肺を刺す冬の空気も、跡形もなくなってしまった。あんな悪夢を見ておいて、飛び起きるわけでもなく穏やかに目が覚めるのが自分のことながら不思議だ。  ベッドのリクライニングを起こして、思い切り手を伸ばしてベッドサイドのスマートフォンを手に取る。四月二十六日の朝七時過ぎ。目覚めたのが二十一日だから、オレの記憶は丸五日分蓄積されたことになる。  目覚めた日には自分の顔も年齢も、名前すら覚えていなかったオレだが、六日目ともなればある程度の情報は自分の中にあった。都築三琴(つづきみこと)という性別を勘違いされそうな名前を持つ、二十歳の男子大学生。全国平均よりは上の大学には在籍しているが、高校時代から優等生というわけではなく、また、不良というわけでもない平凡さだったと言う。三年生になって数回授業に出たものの、四月十九日の夜に通り魔事件に遭い入院を余儀なくされて以降、自分についての一切の記憶を無くしてしまった不憫な人間。見舞いに来る家族は姉一人で、姉曰く「両親は遠いところにいる」らしい。  与えられた情報は自分であって自分ではない。どれだけ客観的な情報が集まろうとも、オレが失った「記憶」の代わりにはならないのだとこの数日で学んだ。オレにとっては何もかも、実感を伴わない情報でしかない。今のところ、オレの記憶だと自信を持って呼べるものは、記憶喪失になってから過ごした丸五日分しかなかった。  病室のドアがノックされる。看護師だろう。返事をすると、スライド式のドアが開いていつもの看護師が顔を出した。伊藤さんという女性だ。 「そろそろ起きられたかと思って。お話大丈夫ですか?」 「はい……気にかけてくださってありがとうございます」  伊藤さんはするりと病室に入り込むと、オレのベッドに近寄ってくる。小柄な彼女は小動物のようで、見ていると記憶喪失という状況に対する重い気持ちが少し和らぐようだった。 「具合はどうですか?」 「今日もまた夢を見ました」 「……また、殺されたんですか」  伊藤さんは悲しそうな顔になった。素直な感情表現は好ましい。 「森の中で男の人に……」  言いかけて、あれは男だったのだろうか、とふと思う。顔は見えていなかった。自分より背が高そうだということはわかったが、男だと確信できる何かがあったわけではない。  疑問は口にせずに、言葉を続ける。 「首を絞められて、多分殺されました」  自分の首に触れてみても、違和感は何もない。夢でしかないのに、殺される瞬間を思い出そうとすると不思議と懐かしいような感覚がある。自嘲するように笑いが漏れた。 「毎晩殺される夢を見るなんて変ですよね。呪われてるのかな」 「三琴さんの頭は憶えていなくても、身体が事件のことを憶えていて怯えているのかもしれませんね」 「忘れるほど怖いなら、夢で見せてこなくても良いのにって思いますけど」  意識して笑うように努めたが、伊藤さんは少し悲しそうに笑った。自分では分からないが、あまり上手く笑えていなかったのかもしれない。  記憶がないことよりももっとオレの心を重くさせたのは毎晩見る悪夢だった。オレの記憶が始まった六日前から、寝るたびに必ず悪夢を見るのだ。決まっていることは「自分が殺されて終わる」ということと「犯人の顔が見えない」ということだけで、シチュエーションや凶器はたいていは違う。ナイフで刺された日もあれば鈍器で殴られた日もある。森の中という環境はつい二日目にも見た気がするが、絞殺は初めてだった。  伊藤さんが毎朝訪れてくれるのは、二日目の朝にうなされているオレを見たから、らしい。起きたときにはうなされていた感覚もなく穏やかに目が覚めるので実感がないのだが、寝ているときのオレはたまに呻いているようだ。  悪夢のあとは大抵最悪な気分だが、伊藤さんとこうして話していると気持ちが落ち着く。 「実際死んでないからいいんですけど。オレはまあ、あの日のことも覚えてないから正直元気なもんです。病院食って正直美味しいイメージなかったけど、ここの食事って結構美味しいし」  下手くそな話の変え方に、伊藤さんは笑いながら乗ってくれた。 「そうですね。三琴さんが生きていてよかったです。今日も朝はパンでいいですか?」 「パンでお願いします。いつもの通りですけど、面会も許可とかいいので、適当に通してください。どうせ言われても全員知らないんで」  じゃあ、そうさせていただきますね。伊藤さんはそう言って病室を出て行く。  一人になると、毎日ぼんやりと思うことがある。事件のことだ。オレにそのときの記憶はないが、身につけていたものの少なさから、おそらくコンビニか何かに向かおうと外に出たのだろうと警察には言われている。犯人はまだ見つかっていない。  目が覚めた日から、オレはずっと考えている。オレを刺した犯人は、たまたまオレを選んだのだろうか。それとも何か理由があってオレを刺したのだろうか。理由があったとしたら、なぜオレだったのだろうか――。
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