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1月5日
目覚めるとコーヒーの良い香りがした。着替えてリビングへと向かう。
観葉植物に水を与えていた真島さんが振り返る。ラフな服装ではなく、白いシャツに灰色のスラックスを履いていた。
窓の向こうは雲ひとつない青空で、眩しくて目を細める。
「おはよう。よく寝てたけど、ここ出るまで一時間ないぞ」
「……おはようございます」
テーブルにはいつものように朝食が並んでいる。真島さんがソファに座ったので、俺も座ってトーストを手に取った。
「真島さん、スーツ着てくの?」
「玲を送ったあと新幹線乗るから、ここに一度帰るの面倒だし」
「え、なんか……、すみません」
成田空港から約一時間かけて東京に戻り、新幹線に乗り換えだ。大変だということはわかる。
「なんだよ、いきなり殊勝になって」
苦笑している。
「俺が方向音痴なせいで、余計な手間かけさせて」
「そうだな。でもまあ手間も楽しかったし、空港まで送らないと帰れるのか気になって落ち着かないから、俺のためみたいなものだ。別れの時間も少し先延ばしになるだろ」
真島さんは、にやりと笑った。
たぶん冗談のつもりだ。少しでも長く一緒にいたい、という意味ではない。うっかり喜んでしまいそうになるから、誤解するような言葉はやめてほしい。
どう答えていいかわからず、黙々と食べた。食べ終えてすぐに食器をキッチンに下げて洗い、歯を磨いて顔を洗う。パジャマにしていたスウェット上下をキャリーバッグに詰め込むと、もういつでも出られる状態になった。
真島さんはネクタイを締めて上着を羽織った。出会ったときに見た大人のサラリーマン姿だ。
「行くぞ」
たった七日の滞在なのに、すっかりここに馴染んでしまい名残惜しい。
これで見納めだ。
リビングを一瞥してから玄関に向かい、東京で過ごした宿を出た。
まだ冬休みの人も多いのか、電車の中は動けないほどの混雑ではなかった。途中で席が空き並んで座ることができたが、電車内は静かで、会話はほとんどなかった。
成田空港の駅で降り、搭乗口まで歩く。真島さんも小さなキャリーバッグを引いているので、まるで二人で出かけるみたいだ。
よくわからないまま歩いているうちに、保安検査場に着いた。検査に並ぶ列がある。
「ここでお別れだな」
「お世話になりました」
頭を下げた。
「ああ、そうだ」
真島さんは上着のポケットから銀色の薄いケースを出した。中から名刺を一枚抜いて渡す。
両手で受け取った。
真島俊介。社名と会社の住所のほかに携帯番号も書かれている。
「もし何かあれば。まあ、また東京来ることあっても、従兄弟の方に連絡するだろうけど。俺も出張でいないこと多いしな」
真島さんの言う通り、次に来るとき手助けが必要なら、圭人に連絡することになるだろう。そのころには新居で落ち着いているはずだ。真島さんを呼び出せる理由はない。年末年始はたまたま予定が空いていただけで、普段はきっと仕事の合間をぬって恋人に会っている。
帰りたくない。
だけど、帰らなければ。
胸が苦しくても、最後はちゃんと笑顔で別れなければ。
「ありがとう」
見上げて、精一杯笑みを浮かべた。
真島さんはこちらを見ている。
まっすぐ、俺だけを。
恋人には悪いけれど、今だけ、最後に一度だけ独占してもいいだろうか。
目の前の身体に軽く腕を回し抱きしめた。
ふわりと甘い香り。
そして遅れてくるわずかな苦さ。
忘れない。
すぐに離れて、もう一度笑う。
「さよなら」
すぐに背中を向けた。検査の列に並ぶ。顔を見られたくない。自分が今、どんな顔をしているかわからない。荷物を検査台に置き、ゲートをくぐる。
後ろは見ない。検査済みのキャリーバッグを引いて歩き出す。もう振り返っても検査場の向こう側は見えない。
ポケットに入れていた名刺を取り出す。
強く掴んでいたから、少し歪んでいる。
泣きたい気持ちだったけれど、堪えて搭乗口へ向かった。
長くて短い旅が終わった。
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