1月1日

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 マンションに戻ってからは、ソファに座ってぼんやりとしていた。あんみつは既になく、テーブル上にはプラスチックの容器が放置されている。  圭人の結婚がこんなにショックだなんて思わなかった。いつこんな日が来てもおかしくなかったのに。別に永遠に会えないというわけでもないのに。  いつも優しくて話を聞いてくれた。父さんに叱られたときは慰めてくれた。  でも俺だけの圭人ではない。  いつまでも甘えてばかりではいられない。  窓の外が夕焼けに染まり始めたころ、真島さんがキッチンに立って何かを作っていることに気付いた。夕食の準備だろうか。  喉が乾いた。  だけど、動くのも億劫だった。  ソファの近くに置かれていた紙袋には酒瓶がふたつある。日本酒の方を取り出した。ちらりとキッチンの方を伺ったが、真島さんは料理に集中しているようだ。  瓶を開けて、水替わりに少しずつ飲んだ。苦いけれど思ったよりも美味しい。  真島さんがテーブルの上に、おせち料理の残りと茹でた蟹を並べた。 「昼食を食べてなかったからな。ちょっと早い夕食ってことで」  そう言ってソファに座る。  俺は蟹の足を手にして、黙々と食べた。  静かな夕食だった。  次々と蟹の足を片付けているうちに、残りひとつだけになった。真島さんは躊躇う様子もなく手を伸ばした。 「あっ!」 「いただき」 「ええっ? 普通聞くよね。真島さんの方がいっぱい食ってるし。俺の蟹」 「俺の蟹だ。俺が支払ったんだから」 「……圭人なら、絶対譲ってくれるのに」  ぽつりと言う。  真島さんは最後の蟹を平らげて席を立ち、冷蔵庫から缶ビールを出して戻ってきた。 「そんなに藤崎がいいのか」  あまり感情のない口調だった。 「圭人は特別だ」 「好きなのか」 「好きだよ」 「それは恋愛という意味? 失恋なら、落ち込むのも仕方ないけど」  何度か瞬きをした。  そんなふうに考えたことはなかった。  誰よりも大事な存在だけど、これ以上どうにかなりたいなどと思ったことがない。今までの関係が良くて、ずっとこのままでいたかった。 「違うんじゃないかな。一緒にいてドキドキするとか、そんなんじゃなかったし。もっと自然で落ち着けた。恋愛みたいに面倒じゃない」  誰かを抱いている姿など想像したくない。だけど、それこそ勝手な幻想なんだろう。 「確かに恋愛は面倒で綺麗ごとじゃないからな。それを知ってるかどうかは怪しいが」 「そうやって、すぐ子供扱いする」 「子供だろう。おめでとうも言えないなんて」  人の気も知らないで。  怒りなのか悲しみなのか、わけのわからない感情が込み上げてきて、爆発した。 「子供なんかじゃない」  真島さんは急に何かに気付いたように、俺の足元を見た。日本酒の瓶を指差す。 「それ、口をつけたのか」 「さっき開けたんだよ」 「この酔っ払いが」  瓶を奪われた。取りかえそうと手を伸ばす。 「酔っ払ってなんかいない」 「酔っ払いはみんなそう言うんだよ。酒は大人になってからにしろ」 「俺は大人だ」 「大人がどういうものなのか、わかっていないくせに」 「知ってるよ、キスもセックスも、なんだって」  ヤケになって適当なことを言う。  子供なんかじゃない。  経験がなくたって、何も知らないわけじゃない。 「知らないくせに」  大きなため息。  それがスイッチになったみたいに、頭の奥が熱くなる。全身も。  俺は飛びつくように真島さんにキスをした。  これくらい簡単だ。  なんてことはない。  ただの唇の接触だ。  目の前の瞳が大きく開かれて、少し優越感を覚えた。子供だなんて見下すからだ。 「……お前、酔うとキス魔になるタイプか。タチが悪いな」  真島さんは顔をしかめている。 「は? 酔ってなんかないって」  突然、襟元を掴まれ、引き寄せられた。 「キスってのは、こうやるんだ」 「……んっ」  唇が重なる。  強く押し付けられる。頭を抱えるように片手が回されて、接触がさらに深くなる。 「んん……」  逃れようとしたが動けない。  唇を割るように強引に舌が入ってきた。抗いたいのに、口中を辿られて、頭の奥も身体も、じんと痺れたようになる。  苦しい。  そう思った瞬間、一瞬離れた。 「……は」  息を吐いたところ、すぐまた重ねられ舌を絡めてくる。最初の強引さはなく優しかった。  頭がぼうっとする。  何に怒ってたのかも、よくわからない。  角度を変えて続けられたキスは、最後に小さく音をたてて離れて終わった。  その音で我に返った。  すぐ目の前に整った顔がある。  何か言おうとしたが言葉が出ない。  真島さんは微かに口の端を上げた。 「わかっただろう? これが大人のキス」  ただぼんやりと、その顔を見つめる。  アルコールのせいなのか、大人のキスのせいなのか、頭がぼんやりとしている。反論する気力もなく言葉が出ない。 「急に大人しくなったな」  ふわふわする。  なんだか、すべてがどうでも良くなってきた。  真島さんは苦笑した。 「藤崎が結婚してしまうのが、離れてしまうようで寂しい?」  無言で頷いた。 「忙しい父親の代わりでもあったんだろうが、お前の母親は?」 「……母さんは、駄目。あの人、父さんにベタ惚れだから」 「ベタ惚れ? 夫婦仲良くていいんじゃないのか」 「父さん家を離れることが多くて、浮気が心配なのか、母さんは気を惹くために必死。エステとか、高価なブランドの洋服とか買いまくってる」  俺のことなどあまり見ていない。 「そうか」 「でも、寂しくなんかなかった。圭人がいたから」  その圭人も離れてしまう。今は遠くに住んでいるとはいえ、それでも何度も帰って、会いに来た。だけど家庭を持ってしまえば一番に帰る場所ではなくなる。そのことが、こんなに寂しいとは思わなかった。 「大人になりたい。早く。寂しいなんて子供みたいだ」 「子供だって自覚したときに、大人の道に踏み出すんだ。だからもう大人になったんだと思って喜べ」 「変な慰め方」  少し笑った。  ずっと子供だった。一人でやれていると思っていたけれど、周りが助けてくれて、知らないうちに頼っていた。  大人にならなければ。  唇をぎゅっと噛んだ。  子供じみた独占欲。  誰よりも一番に自分を思っていて欲しかったけれど、幸せになって欲しいと願う気持ちにも嘘はない。次に会うときは、ちゃんとおめでとうと言おう。 「泣きたいなら泣け」 「誰が泣くか」  言い返すと、真島さんは笑った。 「少しは元気になったか。そうじゃないと俺も調子が狂う。焦ることはない。ゆっくり時間をかけて、寂しいときも笑える大人になればいい」  髪を軽くかき混ぜるように頭を撫でられた。不思議と、子供扱いされている気はしなかった。  真島さんは俺の前髪をかきあげて、額に軽い口づけを落とした。  これも、大人のキスだろうか。
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