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マンションに戻ってからは、ソファに座ってぼんやりとしていた。あんみつは既になく、テーブル上にはプラスチックの容器が放置されている。
圭人の結婚がこんなにショックだなんて思わなかった。いつこんな日が来てもおかしくなかったのに。別に永遠に会えないというわけでもないのに。
いつも優しくて話を聞いてくれた。父さんに叱られたときは慰めてくれた。
でも俺だけの圭人ではない。
いつまでも甘えてばかりではいられない。
窓の外が夕焼けに染まり始めたころ、真島さんがキッチンに立って何かを作っていることに気付いた。夕食の準備だろうか。
喉が乾いた。
だけど、動くのも億劫だった。
ソファの近くに置かれていた紙袋には酒瓶がふたつある。日本酒の方を取り出した。ちらりとキッチンの方を伺ったが、真島さんは料理に集中しているようだ。
瓶を開けて、水替わりに少しずつ飲んだ。苦いけれど思ったよりも美味しい。
真島さんがテーブルの上に、おせち料理の残りと茹でた蟹を並べた。
「昼食を食べてなかったからな。ちょっと早い夕食ってことで」
そう言ってソファに座る。
俺は蟹の足を手にして、黙々と食べた。
静かな夕食だった。
次々と蟹の足を片付けているうちに、残りひとつだけになった。真島さんは躊躇う様子もなく手を伸ばした。
「あっ!」
「いただき」
「ええっ? 普通聞くよね。真島さんの方がいっぱい食ってるし。俺の蟹」
「俺の蟹だ。俺が支払ったんだから」
「……圭人なら、絶対譲ってくれるのに」
ぽつりと言う。
真島さんは最後の蟹を平らげて席を立ち、冷蔵庫から缶ビールを出して戻ってきた。
「そんなに藤崎がいいのか」
あまり感情のない口調だった。
「圭人は特別だ」
「好きなのか」
「好きだよ」
「それは恋愛という意味? 失恋なら、落ち込むのも仕方ないけど」
何度か瞬きをした。
そんなふうに考えたことはなかった。
誰よりも大事な存在だけど、これ以上どうにかなりたいなどと思ったことがない。今までの関係が良くて、ずっとこのままでいたかった。
「違うんじゃないかな。一緒にいてドキドキするとか、そんなんじゃなかったし。もっと自然で落ち着けた。恋愛みたいに面倒じゃない」
誰かを抱いている姿など想像したくない。だけど、それこそ勝手な幻想なんだろう。
「確かに恋愛は面倒で綺麗ごとじゃないからな。それを知ってるかどうかは怪しいが」
「そうやって、すぐ子供扱いする」
「子供だろう。おめでとうも言えないなんて」
人の気も知らないで。
怒りなのか悲しみなのか、わけのわからない感情が込み上げてきて、爆発した。
「子供なんかじゃない」
真島さんは急に何かに気付いたように、俺の足元を見た。日本酒の瓶を指差す。
「それ、口をつけたのか」
「さっき開けたんだよ」
「この酔っ払いが」
瓶を奪われた。取りかえそうと手を伸ばす。
「酔っ払ってなんかいない」
「酔っ払いはみんなそう言うんだよ。酒は大人になってからにしろ」
「俺は大人だ」
「大人がどういうものなのか、わかっていないくせに」
「知ってるよ、キスもセックスも、なんだって」
ヤケになって適当なことを言う。
子供なんかじゃない。
経験がなくたって、何も知らないわけじゃない。
「知らないくせに」
大きなため息。
それがスイッチになったみたいに、頭の奥が熱くなる。全身も。
俺は飛びつくように真島さんにキスをした。
これくらい簡単だ。
なんてことはない。
ただの唇の接触だ。
目の前の瞳が大きく開かれて、少し優越感を覚えた。子供だなんて見下すからだ。
「……お前、酔うとキス魔になるタイプか。タチが悪いな」
真島さんは顔をしかめている。
「は? 酔ってなんかないって」
突然、襟元を掴まれ、引き寄せられた。
「キスってのは、こうやるんだ」
「……んっ」
唇が重なる。
強く押し付けられる。頭を抱えるように片手が回されて、接触がさらに深くなる。
「んん……」
逃れようとしたが動けない。
唇を割るように強引に舌が入ってきた。抗いたいのに、口中を辿られて、頭の奥も身体も、じんと痺れたようになる。
苦しい。
そう思った瞬間、一瞬離れた。
「……は」
息を吐いたところ、すぐまた重ねられ舌を絡めてくる。最初の強引さはなく優しかった。
頭がぼうっとする。
何に怒ってたのかも、よくわからない。
角度を変えて続けられたキスは、最後に小さく音をたてて離れて終わった。
その音で我に返った。
すぐ目の前に整った顔がある。
何か言おうとしたが言葉が出ない。
真島さんは微かに口の端を上げた。
「わかっただろう? これが大人のキス」
ただぼんやりと、その顔を見つめる。
アルコールのせいなのか、大人のキスのせいなのか、頭がぼんやりとしている。反論する気力もなく言葉が出ない。
「急に大人しくなったな」
ふわふわする。
なんだか、すべてがどうでも良くなってきた。
真島さんは苦笑した。
「藤崎が結婚してしまうのが、離れてしまうようで寂しい?」
無言で頷いた。
「忙しい父親の代わりでもあったんだろうが、お前の母親は?」
「……母さんは、駄目。あの人、父さんにベタ惚れだから」
「ベタ惚れ? 夫婦仲良くていいんじゃないのか」
「父さん家を離れることが多くて、浮気が心配なのか、母さんは気を惹くために必死。エステとか、高価なブランドの洋服とか買いまくってる」
俺のことなどあまり見ていない。
「そうか」
「でも、寂しくなんかなかった。圭人がいたから」
その圭人も離れてしまう。今は遠くに住んでいるとはいえ、それでも何度も帰って、会いに来た。だけど家庭を持ってしまえば一番に帰る場所ではなくなる。そのことが、こんなに寂しいとは思わなかった。
「大人になりたい。早く。寂しいなんて子供みたいだ」
「子供だって自覚したときに、大人の道に踏み出すんだ。だからもう大人になったんだと思って喜べ」
「変な慰め方」
少し笑った。
ずっと子供だった。一人でやれていると思っていたけれど、周りが助けてくれて、知らないうちに頼っていた。
大人にならなければ。
唇をぎゅっと噛んだ。
子供じみた独占欲。
誰よりも一番に自分を思っていて欲しかったけれど、幸せになって欲しいと願う気持ちにも嘘はない。次に会うときは、ちゃんとおめでとうと言おう。
「泣きたいなら泣け」
「誰が泣くか」
言い返すと、真島さんは笑った。
「少しは元気になったか。そうじゃないと俺も調子が狂う。焦ることはない。ゆっくり時間をかけて、寂しいときも笑える大人になればいい」
髪を軽くかき混ぜるように頭を撫でられた。不思議と、子供扱いされている気はしなかった。
真島さんは俺の前髪をかきあげて、額に軽い口づけを落とした。
これも、大人のキスだろうか。
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