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1月4日
翌日はフレンチトーストだった。休憩中に食べていると、山田さんが控室に入ってきた。
「あ、美味しそう」
俺はフレンチトーストを頬張りながら軽く頷く。
「藤崎くん今日で終わりなのに、何もできなくてごめんね」
「いえ、こちらこそ」
首を横に振る。
閉店後に送別会をする提案があったが、圭人との食事会の予定が入っていたため断ることになってしまった。開店前に皆に挨拶をして、昨日までと同じように一人で退店することになる。
山田さんはペットボトルの水を飲み、キャップを閉めた。
「また夏休みにでもおいでよ。夏も人手ほしいし、バイトが無理ならお客さんでも」
「はい」
山田さんは手を振り、控室を出ていった。
夏休み。
上京したら真島さんに会えるだろうか。
いや、そんなわけない。
会う理由がない。
俺が社長の息子で、母親から頼まれたので泊めてくれた。それだけだ。歳も離れていて、友達になったわけでもない。
ふう、とため息をつく。
明日までの付き合いだ。
寂しいというのとも何か違う。何なのかはよくわからなかった。
三日間のバイトを終了してマンションに戻ると、既に真島さんは身支度を終えていた。玄関まで出てきて黒いコートを羽織る。
「行くぞ」
俺は靴を脱いで上がることもなく、一緒に部屋を出た。
「ホテルのレストランで鉄板焼きとか、寿司とかも考えたけど、せっかくだから東京っぽいのがいいだろ」
「東京っぽいの?」
エレベータで下まで降りると、手配していたのかタクシーが停まっていた。後部座席に二人並んで座る。
真島さんが運転手に告げたのは、月島の住所だった。
※
この付近は低層の建物が多く、似たような構えの古い店が並んでいる。少し離れた場所には高層マンション群があり、新旧入り混じる光景だ。
タクシーを降り、もんじゃ焼きの看板を掲げた店の横開きの戸を開けた。
「いらっしゃいませ!」
威勢のいい声で出迎えられる。店内はカウンター席が四席、テーブル席と座敷席がそれぞれ二つ。大きな店ではないが既に満席だ。
奥の座敷席で手を上げているのは圭人だった。
「真島さん、玲」
圭人の隣には婚約者の女性が座っていて、こちらを見て軽く頭を下げた。
上着を壁際のハンガーラックに掛けて、靴を脱ぎ座敷に上がる。俺は圭人の向かい側に座った。
先日会ったときは、おめでとうと言えなかった。圭人と婚約者は、良い反応ではなかった俺のことを気にしているだろうか。
圭人がメニュー表を手に取った。
「何か食べたいものある?」
「うーん、何を頼んだらいいんだろう」
もんじゃ焼きという名は聞いたことがあるが、お好み焼きとはどう違うのか。
「じゃあ、良さそうなの頼もうか」
「うん、お願い」
席まで来た店員に圭人が注文した。店員は厨房の方へ行き大声でメニュー名を伝えている。
「真島さんには本当に玲がお世話になりました。ありがとうございます」
「いや、世話というほど特別なこともしてないので」
ビールが運ばれてきたので、大人三人はビール、俺はコーラで乾杯した。
目の前の鉄板に、店員がどろりとしたものを広げる。見た目は微妙だが、甘く香ばしい匂いはたまらない。
小さなヘラを真島さんに手渡された。
「いいと言うまで食うなよ」
「そんな、がっつかないよ」
食べ頃になるまで少し時間がかかりそうだ。
「改めてご紹介します。彼女が婚約者の赤江渚さん」
赤江さんが頭を下げる。色白で、まっすぐな黒髪は肩より少し長い。
「赤江です。よろしくお願いします」
「お二人は、お付き合いして長いんですか」
真島さんの問いに圭人が首を横に振る。
「いえ、実は昨年から英会話教室に通っていて、そこで知り合いました」
英会話教室の話は以前聞いたことがある。そのうち仕事に役立つかもしれないと、趣味と実益を兼ねて通い始めたと。
「焼けたぞ。こそげる感じでヘラですくって食べろ」
「こそげる?」
真島さんが実践したので、真似をする。へらを使って口に運ぼうとした。
「熱いから火傷するなよ」
「しないって。子供じゃないんだから」
「熱っ!」
声がした方へ、二人同時に視線を向ける。
圭人は隣から差し出された水を受け取って飲み、顔を赤らめた。
「……すみません」
赤江さんが微笑みながら、おてふきで圭人の太腿のあたりを拭って言った。
「すごく落ち着いてるようで、意外とそそっかしいんですよね」
舌を火傷した瞬間、こぼしてしまったらしい。
圭人のこんな姿を初めて見た。
いつも世話をやいてくれていたけれど、本当はこんなふうに、安心して甘えられる存在がほしかったのかもしれない。
良い人と出会えたのだ。
二人が一緒にいるのを初めて見たときの不安が、やわらいでいくのを感じる。
「結婚おめでとう。式には呼んでよ。東京でも駆けつけるから」
自然に言葉が出た。
圭人は目を見開いてから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。玲に反対されたら結婚できないと思っていたから」
「え、そうなの?」
赤江さんがおどけるような口調で言ったので、皆で笑った。
「この前会ったときは、ちょっと驚いたけど、俺に綺麗なお姉さんができたと思えば、超ラッキーだなって」
「私も、弟ができるみたいで嬉しい」
その後はもんじゃ焼きを食べながら、二人で住む新居の話、真島さんと正月に観光した話などで、なごやかな時間を過ごした。
店を出ると空は真っ暗で、高層マンションの明かりが綺麗だった。
「僕たちは地下鉄で帰りますが、二人は?」
真島さんが答えた。
「実はまだ観光してないところがあって、これからタクシーで向かうつもりです」
聞いていなかったが、どこなのだろう。
「玲、今日は来てくれてありがとう」
「俺も一緒に食事できて、楽しかった」
ここに来なければおめでとうも言えなかった。
そもそも真島さんがいなければ、ずっと複雑な思いを抱えたまま北海道に帰ったかもしれない。
「明日、気をつけて帰って」
「うん」
二人に手を振る。去っていく背中を見つめてから、真島さんの方へ視線を移した。
真島さんは素早く手を上げてタクシーを停めていた。
「行くぞ」
どこなのかわからないけれど、ついていくしかない。後部座席に二人で乗り込んだ。ドアが閉まり発車する。
「東京タワーまでお願いします」
運転手が「はい」と答え、発車した。
そういえば、東京タワーに行きたいと言っていたのだった。アルバイトがない日の方が余裕あったのに今晩になったのは、もしかして元日の夜に行くつもりだったのだろうか。
それが、圭人と会ってすっかり気落ちして、観光どころではなくなった。そういうことかもしれない。
夜でも明かりが溢れている街の中をタクシーが走る。
「上出来だな」
「え、何が?」
「笑っておめでとうって言えた」
真島さんが笑う。少しからかうような目をしている。狭い車内なので顔がとても近くて、息遣いまで聞こえそうで、鼓動が少し早くなる。
「大人なので」
精一杯澄ました顔で答える。
「泣きたければ泣いてもいいぞ」
「全然泣きたくなんかないし」
本当はまだ大人になりきれなくて、圭人が遠くへ行くような寂しさはあるけれど、いつまでも甘えてはいられない。前へ進んでいかないと。
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