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慌てて離れた。
「すみません!」
心臓がばくばく鳴っている。
灰色のスーツに黒いコートを着た見知らぬ男だった。すらりとした体型で、一八十センチは軽く越えているだろう。前髪は下ろしていて襟足は短く、顔立ちは整っている。歳は二十代後半か。都会の男、という雰囲気だ。
「迷子か」
男に問われ、瞬きをする。
「……俺のこと?」
「そう」
男は頷く。
もしかするとサラリーマンの振りした窃盗かもしれない。都会にはスリが多いから気をつけなさいと、旅立つ前に母親に言われていた。
警戒しなければ。
そう思ってから、気づいた。
「あ!」
キャリーバッグ!
館内図に駆け寄ったときに、手に持っていなかったことに今さら気付く。さっきまで立っていた場所を振り返ったがキャリーバッグはどこにもない。
横で大きな溜息が聞こえた。
「放置するとか、盗り放題だろ。それか不審物として大騒ぎになるか」
男の手元には俺のキャリーバッグがあった。
見かけて確保し、こちらまで来てくれたのだ。
窃盗と疑ったのが申し訳ない気持ちになる。
「……ありがとうございます」
受け取って頭を下げる。
「で、どこに行くつもりなんだ」
「ええと、それが、わかんないんです……」
答えようがない。宿泊先には圭人が連れていってくれる手筈だった。
「行くところがわかんないって子供か王族か? 今どき小学生でもそれくらいわかるだろう」
初対面でそこまで言うか。
しかも思いっきり子供扱い。
いや、子供以下扱いか?
「子供じゃないです」
男は少し愉快そうな表情で、眺めるようにこちらを見ていた。女性ならうっとりしたかもしれないが、検分するみたいな視線が不愉快で睨み返す。
「子供だな」
ふっと息を漏らすように笑った。
火に油を注ぐとはこのことか。
カチンときたが、言い返す前に尋ねられた。
「誰かと待ち合わせか。電話は?」
「スマホ持ってなくて……」
父親は妙に厳しいところがあって、高校生のうちはスマホは持たせないと言う。地元は都会と違って顔見知りばかりだから、防犯のために持たせるという人も少ない。
「あ、でも、電話番号はわかります」
念のためにと圭人の電話番号、宿泊先の住所などはメモしてきた。メモをポケットから取り出したものの、周囲に公衆電話は見当たらない。
男が手を差し出してきた。
「最近は公衆電話もあまりないからな。俺がかけてやるよ」
「……いいです。電話探すので」
身元不明の男に個人情報を見られるのも心配だし、子供扱いされているのも気に入らない。
「人混みでうろうろしたり、荷物置きっぱなしにしたり危険だろ。周囲が。それに自分で電話しても現在地も伝えられないくせに」
「なっ――!」
反論したかったが、その通りなので何も言えない。
文句を言う間もなく、男は俺の手からメモを奪った。スーツのポケットからスマホを取り出し、メモを見ながらタップする。
一連の流れるような動作をぼうっと見ていたが、勝手なことをされたという怒りもじわじわ沸いてきた。
男がスマホを耳に当てる。すぐに圭人が電話に出たようだった。
「あなたと待ち合わせてる人が迷子になっています」
現在地を告げてすぐに電話を切った。
男はメモを返して言った。
「いいか、ここで待ってろ。絶対に一歩も動くな。すぐに来るだろうから」
仕方なく頷く。これ以上迷うのは御免だ。
男は片手を上げて背中を向けた。キャリーバッグを引き、コートを翻して颯爽と歩いていく。
姿が見えなくなってから気づいた。
お礼を言いそびれた。
子供扱いして、許可もしてないのにメモを取り上げた男に礼などいらないか。
そうも思ったが、どちらにしても、もう何も言えない。名前も知らない、二度と会うことのない人だ。
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