12月30日

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 慌てて離れた。 「すみません!」  心臓がばくばく鳴っている。  灰色のスーツに黒いコートを着た見知らぬ男だった。すらりとした体型で、一八十センチは軽く越えているだろう。前髪は下ろしていて襟足は短く、顔立ちは整っている。歳は二十代後半か。都会の男、という雰囲気だ。 「迷子か」  男に問われ、瞬きをする。 「……俺のこと?」 「そう」  男は頷く。  もしかするとサラリーマンの振りした窃盗かもしれない。都会にはスリが多いから気をつけなさいと、旅立つ前に母親に言われていた。  警戒しなければ。  そう思ってから、気づいた。 「あ!」  キャリーバッグ!  館内図に駆け寄ったときに、手に持っていなかったことに今さら気付く。さっきまで立っていた場所を振り返ったがキャリーバッグはどこにもない。  横で大きな溜息が聞こえた。 「放置するとか、盗り放題だろ。それか不審物として大騒ぎになるか」  男の手元には俺のキャリーバッグがあった。  見かけて確保し、こちらまで来てくれたのだ。  窃盗と疑ったのが申し訳ない気持ちになる。 「……ありがとうございます」  受け取って頭を下げる。 「で、どこに行くつもりなんだ」 「ええと、それが、わかんないんです……」  答えようがない。宿泊先には圭人が連れていってくれる手筈だった。 「行くところがわかんないって子供か王族か? 今どき小学生でもそれくらいわかるだろう」  初対面でそこまで言うか。  しかも思いっきり子供扱い。  いや、子供以下扱いか? 「子供じゃないです」  男は少し愉快そうな表情で、眺めるようにこちらを見ていた。女性ならうっとりしたかもしれないが、検分するみたいな視線が不愉快で睨み返す。 「子供だな」  ふっと息を漏らすように笑った。  火に油を注ぐとはこのことか。  カチンときたが、言い返す前に尋ねられた。 「誰かと待ち合わせか。電話は?」 「スマホ持ってなくて……」  父親は妙に厳しいところがあって、高校生のうちはスマホは持たせないと言う。地元は都会と違って顔見知りばかりだから、防犯のために持たせるという人も少ない。 「あ、でも、電話番号はわかります」  念のためにと圭人の電話番号、宿泊先の住所などはメモしてきた。メモをポケットから取り出したものの、周囲に公衆電話は見当たらない。  男が手を差し出してきた。 「最近は公衆電話もあまりないからな。俺がかけてやるよ」 「……いいです。電話探すので」  身元不明の男に個人情報を見られるのも心配だし、子供扱いされているのも気に入らない。 「人混みでうろうろしたり、荷物置きっぱなしにしたり危険だろ。周囲が。それに自分で電話しても現在地も伝えられないくせに」 「なっ――!」  反論したかったが、その通りなので何も言えない。  文句を言う間もなく、男は俺の手からメモを奪った。スーツのポケットからスマホを取り出し、メモを見ながらタップする。  一連の流れるような動作をぼうっと見ていたが、勝手なことをされたという怒りもじわじわ沸いてきた。  男がスマホを耳に当てる。すぐに圭人が電話に出たようだった。 「あなたと待ち合わせてる人が迷子になっています」  現在地を告げてすぐに電話を切った。  男はメモを返して言った。 「いいか、ここで待ってろ。絶対に一歩も動くな。すぐに来るだろうから」  仕方なく頷く。これ以上迷うのは御免だ。  男は片手を上げて背中を向けた。キャリーバッグを引き、コートを翻して颯爽と歩いていく。  姿が見えなくなってから気づいた。  お礼を言いそびれた。  子供扱いして、許可もしてないのにメモを取り上げた男に礼などいらないか。  そうも思ったが、どちらにしても、もう何も言えない。名前も知らない、二度と会うことのない人だ。
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