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この流れの中で、イングランドはネーデルランドの権益を奪うべく、再度の戦争を狙い、1651年10月に制定されていた「航海条例」(イングランド軍艦への敬礼義務、イングランドへの輸入品は原産国の船によってのみ輸送が可能)を強化、ネーデルランドの貿易高の3分の2を占めるバルト海(主にロシア)、地中海(主にトルコ)からのイングランドへの輸出品は、原産国及び船長・船員の4分の3がイングランド人から構成されるイングランド船で運ばなくてはならないとされ、さらに、イングランドと植民地間の輸送も、イングランド、ウェールズ、アイルランドの船だけに限って、タバコ・砂糖・染料などを扱えるとされ、事実上、ネーデルランドの中継貿易機能を奪う事になった。
これは、イングランドによる完全な挑発であったが、デ・ウィットは正面からそれにのらず、地中海でバーバリ海賊掃討の任にあったミヒール・デ・ロイテル提督の率いる艦隊に植民地回復を命じた上で、状況を見極めようとしていた。
謁見後、軽い懇談の席へと移り、ウィレム3世は、この東洋の16歳の少女に緑茶を勧めた。
この時期のヨーロッパでは紅茶よりも緑茶が好まれたという。
後にヨーロッパ喫茶の家元となるべきイングランドには、チャールズ二世に嫁いだカタリナ王妃が紅茶を持ち込んだばかりの時期に当たる。
ちなみに、日本からヨーロッパへ茶がもたらされたのは、1610年の平戸からの抹茶が最初であるという。
この時期、ヨーロッパでは紅茶がまだ普及しておらず、抹茶が好まれて飲まれたという。
「メウフラウ。日本の大君は四代目と聞くが、帰国の国は大君の持ち物であって、市民の持ち物ではないのか?」
少年王の問いに、麻亜沙は戸惑いつつもこたえた。
「大君(徳川将軍家)は、京都の天皇家より国政を委任されております。つまり、表向きは国を預かっている形になります」
「市民は政治には参加しないのか?」
「私は長崎の出ですが、町年寄が合議で町を運営しております。代官はおりますが、よほどのことが無い限り、町政には介入しません」
「それは初代の大君(家康)が決めたことか?」
「私も詳しくは知りませんが」
こういう話が伝わっている、と麻亜紗はいった。
関ヶ原の戦いが終わった直後、大坂城の南にある堺が、俄かに自立の姿勢を示した。
秀吉の時代に埋められた濠をさらい、堺の有力な生産品である火縄銃を携えて、大坂城に入った家康と対峙するに至った。
家康は、茶屋四郎次郎に命じて、堺の有力商人だった山中新六を呼び、滾々と説き諭した。
「世はもはた泰平。濠を設けて争う時代ではない。これからは諸国往来も自由、町にも人の心にも濠は設けぬ時代じゃ」
これに対して、新六は、
「民に手枷足枷がついて、自由に生きられぬ時代になるのでは」
と案じると、家康は、
「建前通り、堺の町は町衆の自治に任せ、代官はおくが、これは租税の取立てと最低限の司法のみ取り扱う」
といい、事実、堺はそのようになり、倉敷・博多が天領となって、これに続いたという。
「堺は、かつて永禄年間、織田信長公に包囲されて矢銭を要求されたときも屈せず、これを跳ねつけたことを誇りに思っております」
それは、グレゴリウス暦に直して何年の事だ、とウィレム3世は問うた。
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