第一章

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「茉紘ーっ!茉紘ーっ!」 黒光りした車体のフロントには、丸の中に『L』のロゴが付いている車が乗り付けて、キュキュキュッとかっこよく止まり、ドアを閉めるとドゥッという、聞いた事のない心地良い音に続いて現れたのはまさかの東城さん。 工場に来て、ブンブンと手を振りながら僕の方へ走ってくる。 休憩でジュースを買いに自動販売機に行く途中。 なんで? 同期の寺田君や、パートのおばちゃん、杉山さんなんかがいない事を確認する為、僕は周りをキョロキョロと思いっ切り見回した。 「茉紘、偶然だな。同じ会社だったなんて」 同じ会社って、立場は雲泥の差がありますけど… と僕は顔が引き攣る。 「僕の事、知ってたんですか?」 偶然なんて嘘だろうと思った。 「ん?知ってたよ」 じゃあ、偶然じゃないじゃない。 それにあっさり「知ってた」って、明らかに会話が可笑しいでしょう、そう思って顔が訝しむ。 「今年の初めかなぁ。工場で茉紘を見てね、ひと目で気に入った」 「僕、を?」 「ああ、茉紘の真面目に働く姿とか笑った顔とか、滅茶苦茶可愛くてなー、何度か俺、工場に来てたの知らないの?茉紘の傍まで行ったんだけどな」 知らないよ、東城さんが専務だって事だって知らなかったし。 「だからあのスーパーで見掛けた時、運命だと思った」 …… そんな訳はない。 「休み時間?」 「はい、二十分休憩なのでもう戻ります」 「冷凍部門だろ?身体、大丈夫か?」 僕が働いている部署は冷凍食品を作っている所で、中はそれは極寒。でもその分、他の部署より給料がいいから、特に不満に思った事はない。 「全然、大丈夫です。有難うございます」 気に掛けて貰ったのでお礼を言う。 ププププーッと激しいクラクションの音がして二人で振り向いた。 「あ、まずい、まずいっ!茉紘を見かけたから急いで車止めて降りてきちゃったよ。道塞いでた」 あはははと笑って車に向かって走って行くと、クラクションを鳴らした運転手が慌てて降りてきてぺこぺこぺこと何度も頭を下げている。きっと専務の車だなんて知らなくて、驚いて謝っているんだろう。ブンブンと笑って手を振っている東城さん、こちらこそごめんね、とか言ってるのかな?今のうちに僕だって退散すれば良かったのに、その光景をずっと見てしまっていた。 「今度また、『もやし丼』作ってくれるか?」 車を端に寄せてまた、ドゥッという音をさせドアを閉めると、インターハイに出たというそのスピードで僕の傍に再び走り寄ってくるとそう言った。 … 何を言っているんだろうと思った。あんなボロアパート、あんなご飯、東城さんの後ろにある車だけで、きっと死ぬまであそこに住めて毎日豚肉入れたってお釣りがくる、そんな人が僕をなんて、馬鹿にしているのかと思った。それに僕は男だ、いくら僕にだって選ぶ権利はある。 「… 田舎もんだど思って馬鹿にすてらんだが」 「え?ステラン?四環式飽和炭化水素のひとつだね、茉紘、化学に詳しいんだな」 で、ステランがどうした?と東城さんがニコニコして訊いてきた。 知らないよ、何?それ、田舎もんだと思って馬鹿にしてるんですか?って訊いたんだよ。 「すみません、戻りますので」 くるりと背を向けると 「明日、行ってもいい?」 空気を読まない嬉しそうな声が背中で聞こえて振り向く。 「僕、そういう趣味ないので」 はっきりと言った。いいだろう、別に専務だろうが何だろうが関係ない。これで何かあったらいわゆるパワハラ、いや、セクハラ?どっちだ?どっちでもいい、僕は間違ってない。 「俺はそういう趣味あるから」 ニコッと笑う東城さんが最強過ぎて、ちょっと、いや、かなり怖い。 「だったら、尚更… 関わりたくありません」 「俺は関わりたいもん」 話しにならなくてちょっと苛立った。 この間は久し振りに楽しい夕食で、東城さんも悪い人だと思わなかったし、いや、悪い人では無いんだろうけど、そういう目的だったら迷惑だ。そう思って顰めっ面になった。 「野々上ー!もうすぐ時間だぞー!」 班長が呼んでいる。結局ジュースも買えないまま休憩が終わってしまった。軽くため息を吐いて頭を下げて東城さんに背を向けて走りだす。 「野々上、あれ、専務だよな?」 流石に班長は専務の事を知っているのか。 でも僕は知らなかったし、関わりたくない。
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