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第二章
そうして僕は東城さんの願い出を受け、工場の近くの部屋へ引越す事になる。
引越しの手配もしてくれたけど、それほど荷物も無いから却って業者の人に申し訳ない気持ちになった。
狭い部屋だったけど、初めて東京に出てきて色んな事があった。何も無くなった部屋を一人で見回し、少し黄昏た。
初めて東城さんがこの部屋に来た日の事も思い出して、一人でクスリと笑う。
「出発しますよ〜」
業者の人にトラックから声を掛けられて、慌てて部屋を出た。
一緒に乗せて貰って新しい部屋へと移動する。東城さんから言われているのか、業者の人の気遣いが凄過ぎて恐縮してしまう。
「大丈夫ですか?そっち狭くないですか?」
「あ、全然大丈夫です」
「少し揺れますから気を付けてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
そんな風で、気を遣われてるのが分かり、僕も気を遣ってしまい疲れる。早く着かないかな、とか思って居心地が悪かった。
新しく住むマンションに着いて、まず仰天した。
工場の近くというのは聞いていたけれど、自分とは縁が無いからか全く意識をしていなかった大きくお洒落、こんな建物があったんだと思う位に自分には見えていなかったマンション。
大きな石畳で出来たアプローチの脇には沢山の高低さまざまな木が植えられ、ばあちゃんにも見せてあげたいと思う位にとても綺麗だった。
「えっと… ここの15階になりますね〜」
15階?下から1、2、3、4… と数えて15階にあたる所を見上げて目をパチクリさせた。
「茉紘っ!」
夢の中にいる様で、フワフワしていた所に東城さんの声が聞こえて、途轍もなくホッとした。
「ご苦労様」
業者の人に東城さんが挨拶をすると
「東城様、この度は弊社をご利用頂きまして誠に有難うございます!」
深々とお辞儀をして作業に戻っていく。
「部屋へ行こう」
嬉しそうに僕の背中に手を当ててニコリと笑った。
「えっ?… 」
広すぎて驚く。
1LDKというが、リビングが三十畳位ある。家具も台所用品なんかも、もう設置されていて今すぐに快適な暮らしが出来る。寝室という部屋に置かれていた大きなベッドを見て、一瞬怯んだ。
「野々上様のベッドはいかがなさいますか?」
『東京では布団ではなぐでベッドで寝るんだがんな』と、妙な思い込みをしていたばあちゃんが安いパイプベッドを買ってくれた。処分したくなかったけれど、この部屋にはあまりにも似合わな過ぎて、訊かれて答えに困った。
「そのベッドの隣りに組み立ててくれる?」
東城さんが言ってくれた。
「慣れたベッドもあった方がいいよね、どっちで寝てもいいよ」
寝室だって広くて、この部屋だけで三部屋位は作れそうだった。寝室からも廊下からもお風呂場に行けて、僕の嫌がる事は絶対にしないって、東城さん、言ってたよね… 胸がドキドキして困った。
夢の様な生活が始まるのに、僕の心は落ち着かなくて、とんでもなく悪い事をしてしまった様な気になり、地に足が着かない感覚に戸惑った。
「… こんな所… 僕… 住めないです」
ボロアパートは引き払い、ここに住むしかないのにそんな言葉が口から出た。
台所… キッチンには真新しい鍋や調理器具が並んでいて、持ってきた僕の鍋なんかが入っている段ボールに目を遣った。
「あ、秘書にね、ひと通り揃えておいてって頼んだだけだから、茉紘の使いやすいのを使ってよ」
突然に知らない世界に放り込まれたみたいで、何も言えずに出来ずに佇む僕を、東城さんはそっと抱き寄せた。
「茉紘… 有難う」
ここに越して来た事に礼を言っているのだろうと思った。
僕の不安を全て分かって抱き締めてくれて、「有難う」のたったそのひと言で僕は心が落ち着いて、とても安心して東城さんの胸の中で目を閉じた。
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