十四、五月十四日 木曜日 十八時

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十四、五月十四日 木曜日 十八時

 妙に気の抜けた午後の空気。チョコレートドアの向こうから、柔らかな光が店内に差し込む。  貴広は、良平とごいんきょと、さっきまでの顛末を振り返っていた。 「あいつ、あそこで沙耶香を止めてたら、一生言われるな。『アンタがあのとき邪魔をしたから』って。怨まれるから、絶対」 「それは間違いございませんですねえ」 「それってもしかして、嫁さん側がやりたがってた結婚式をしないってのに似てますかね」 「そうそう! そうでございます。まったく同じ構造でございますですよ」  若いふたりは釧路へ帰っていき、センセエは大学へ戻っていった。  センセエに説得されて、順也は沙耶香の東京行きを受け入れた。釧路行きの列車にまだ間に合うからと、沙耶香と順也は手をつないでJRの駅に向かった。  センセエは「自分の身内が迷惑をかけた」と、貴広に宿泊費、食費相当の金額を納めた。貴広は少し考えたが、遠慮なくもらっておくことにした。貸し借りなしのフラットな関係を保つ方が気楽だと思ったのだ。  常連さんたちといい距離感を保つには、お互い負担に感じない間柄でいた方がいいだろう。  若いふたりを見届けて、ごいんきょも帰っていった。全て終わってからやってきた栗田さん(闇)は、そんな劇的な場面を見逃したことにブツブツと不満を漏らした。 「ええぇぇ? なんでそんな面白い展開になってるのを、誰も教えてくれなかったんですか……。ちょっと声をかけてくれたっていいじゃないですか……。そんな面白い見世物なら、仕事なんて放り投げて目撃しに来ますよ。ひどい……冷たい……そして、こんなにこの店に通ってるのに、そういうとこだけ見られないとは、我ながら何という『見放され』感。くそぅ、天め」  ずいぶんスケールの大きな恨み言になっている。さすがは栗田さんだ。  誰とはなしに、今日は早々に家族の許へ引き上げていった。みんな近しいひとの温もりが恋しくなったのか。  あの栗田さんにしても、ちゃんと家族は持っている。驚くべきことだ。家庭ではあの闇属性をどうしているのだろうか。抑えている? それとも全開にして、家族間でのネタにしている? 「沙耶香が『二階を見せろ』って言ってきたときさあ」 「うん?」 「喫茶トラジャ」も、今日は早めに閉めることにした。   沙耶香に引っかき回され、酒井さんの持ってきた話にドキドキして、いつになく盛りだくさんの三日間だった。 「お疲れさん」の意味を込め、貴広は良平に「寿司でも取ろうか?」と聞いた。良平は少し考えていたが、笑って首を振った。  貴広は早めにまかないを用意した。  オムライスの練習用に仕入れた鶏肉やらタマネギやら、これからはそんなに要らなくなる。ようやく祖父のレシピが再現できたのだ。もう練習は必要ない。  古くなってしまわないうちに、処理してやろうか。それとも、練習に作っていたのと同じ数くらい、オーダーが入るようになるだろうか? そうなったらいいのだけれど。  照明を落とした店内はぼんやりとして、オレンジのライトがグラスの縁にきらめいた。カウンターに並んで、貴広は良平とビールで乾杯した。いつものことだが、良平は今度もよくやってくれた。 「貴広さん、なんか最後に言ってたじゃん? 『血縁だったら虎之介なんて言わない』とかなんとか」 「……ああ」 「あれ、どういう意味?」  貴広は苦笑した。 「おれのじいさん、『虎之介』って名前じゃないんだよ」 「はあ?」  良平はあんぐり口を開けた。 「『虎之介』は大衆演劇の座長につけてもらった芸名だってよ。本名は森井征之(まさゆき)。『誠』にいた頃は、征之を名乗っていたはずだよ。彼女のおばあちゃんと出会ったのって、その頃なんだろ? サヤカの演じたシナリオ的には」  貴広はちょっとしんみりした声で言った。 「この店では『虎之介』で通っていたから、常連さんたちの手前、俺もそう呼んでいるけど。祖父が生きている頃は、『虎之介』なんて名前、意識したことなかったよ」  良平はグラスを片手にくつくつと笑った。 「なぁんだ。じゃあ、初めから分かってたの? 彼女が嘘をついてるって」  貴広も口の端でニヤリと笑った。 「まあな。だから少しずつ、その可能性を潰していった」  良平はグラスに残ったビールをぐいっと飲み干した。 「悪い大人だなあ」 「そりゃね、だてに九年間商社勤めで、海千山千のくせ者ばかりと渡り合ってきた訳じゃないよ」 「ふーん」  貴広は冷蔵庫から新しいビール缶を出し、良平と自分のグラスに注いだ。 「……何か、カッコいいな」  良平は呟いた。 「まあなぁ」  貴広はいい気分だった。  二缶目のビールを咽に流し込み、貴広は言った。 「良、お前もたまには家へ帰って、親に顔でも見せてやれば?」  良平こそが、サヤかが嗅ぎ付けた通り、元祖家出少年だった。去年の冬、良平がここに居着く前の話。  良平はグラスの縁をくわえたまま言った。 「俺の家はココだから」 「そっか」  良平はグラスを置いた。 「貴広さん……」 「ん?」  良平の顔が近付いてきて。  貴広も良平の肩に腕を回し。  カウンターに並んでふたりは唇を重ね合わせた。
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