六、五月十三日 水曜日 十時

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六、五月十三日 水曜日 十時

 十時。開店の時間だ。 「喫茶トラジャ」も、昔は朝八時から開けて、出勤前の勤め人にモーニングを提供していた。  だが、先代マスターの虎之介が六十歳になったとき、営業時間を縮め、朝八時から夜八時の営業を、午前十時から夜七時に変更したそうだ。  貴広がトラジャを継いで店主は若返ったが、営業時間はそのままにしておいた。せっかく長時間拘束の商社を辞められたんだから、少しのんびりやりたかった。 (昔のひとは元気だったんだなあ)  貴広はぼんやりとそう思った。  着替えてカバンを肩にかけた良平が、チョコレートドアを開けて外へ出てきた。 「じゃ、いってきます」 「おぉ。しっかり勉強しといで」  貴広は良平の髪をくしゃとなで、ポンポンとそれを直してやった。良平は(いつもいつも止めてよね)と貴広を一瞬にらみ、それからニコと笑って腰の低い位置で手を振り駅へ向かった。  かわいい。  貴広は手にしていた「営業中」の札をドアにかけ、店内へ戻った。 「君は学校は? じゃなかったらお勤めは? 昨日も今日も平日でしょ?」  サヤカは思い詰めたような顔をして言った。 「ここに置いてください。いとこ同士は結婚だってできるんですから」  見上げる瞳がうるんで、長めの睫毛がふるふる揺れる。 「だからさあ……」  貴広はまた頭をかく。  この子はどうして何かにつけ自分の魅力でひとを陥落させて、言うことを聞かせようとするのだろう。  確かに小悪魔的で可愛らしい顔立ちをしているが、相手にだって好みがあるし、地球上の全員にその魅力が通用するとは限らないのだけれど。  何か、そう、何かサヤカの言う「台本」以外の目的があるのだろうか……?  扉の鐘がカラ……ンと鳴った。 「マスター、おはようございますですぅ」 「おはようございます、ごいんきょ。いらっしゃいませ」  常連さんのひとり、宮部さんが本日のファーストゲストだった。  通称「ごいんきょ」。  いくつもの事業を立ち上げ大成功した社長さんだったが、今では大半を息子に任せ、自分は隠居生活を楽しんでいる。自宅が近所なので、昼間は「喫茶トラジャ」、夜は近所のラウンジ「ゆうこ」を根城にしている。貴広がサラリーマン生活に別れを告げ、祖父の店を引き継ぐ決心をしたきっかけのひとりだ。 「コーヒーになさいますか?」 「ええそうですねえ、今日は食事がまだでございまして、トーストもお願いいたしますです」 「かしこまりました」  そう笑顔で承って、貴広は、カウンターの中からサヤカを追い出した。 「ほら、仕事するから、そっち行って」  サヤカはピンクの唇をとがらせたが、客席へ移動した。甘えたり駄々をこねたりと手管を繰りだすサヤカだが、貴広の仕事のジャマになるギリギリ一歩手前のところでいつも止める。まるで初めから引き際はわきまえていて、「ここから先はシャレにならない」というエッジを狙っているかのようだ。 「はあはあ。あなたでいらっしゃいますかしら。『喫茶トラジャ』に現れた、マスターのいとこのお嬢さんとおっしゃるのは」  ごいんきょはニコニコ顔でサヤカに声をかけた。いつもながら情報が早い。  サヤカはひるんだような一瞬のあと、輝かんばかりの笑顔を浮かべてうなずいた。 「はい、サヤカと申します。生前、祖父虎之介がたいへんお世話になりまして」 「とんでもないことでございますよ、お世話だなんて。虎之介さんにはこちらこそ、いつもいつもよくしていただきましてですね。もちろん、麗さんにも」  多分、常連さんがあとひとりかふたりくらい、続けて現れるような気がする。貴広はトースターのタイマースイッチを回し、コーヒーを三杯分落としはじめた。 「ごいんきょ、さすがお早いですね。誰からお聞きになったんです?」  貴広はドリッパーに目を落としたまま、小声でそうごいんきょに訊いた。  ごいんきょは口許を手のひらで隠しながら、同じく小声で答えた。 「いえね、昨夜『ゆうこ』ではもう、その話題で持ちきりでございまして」 「ああ」  そんなことだろうと思った。  一応世間話として訊いてはみたが、さてその続きをどうしたものか。若い頃の祖父の不始末を噂されたところで自分に困ることはないが、サヤカの言い分を認めるものでもない。貴広はそれきり黙ってドリッパーに湯を落としつづけた。  カラ……ン。  続いて現れたのは栗田さんだった。 「おはようございま……す。あ、ごいんきょ……」 「あらあら、おはようございます。珍しいでございますねえ、栗田専務がこんな朝早くからお見えになるなんて」 「はあ……。まあ、この普段時間は社にいて、朝から胸クソの悪くなる報告を聞かされてますよね、部長共と社長から……」  今日はちょっと考え事があるのでと、栗田は奥のボックス席を選んだ。昨日と同じ、カウンターのそばの席にサヤカを見つけて、栗田は上目づかいに話しかけた。 「やあ、お嬢さん、今日もいたね。夕べは結局ここへ泊まったの……?」 「ええ。用事が済むまでは帰れませんもの」 「そうか……。まあ、がんばって……」 (「がんばって」か)  史上最凶の闇キャラ、栗田さんの口から前向きなエールを聞いた。こんなセリフ、初めてかもしれない。 (可愛い女のコの効果はすごいなあ)  そう貴広は舌を巻いた。
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