七、五月十三日 水曜日 十二時

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七、五月十三日 水曜日 十二時

 栗田さんは考えがまとまったと言って、いつもの前傾姿勢で会社へ戻っていった。  ごいんきょは時折こっくりこっくりと居眠りをしながら、入ってきた誰かとしゃべったり、持ちこんだ本を開いたりしていた。  サヤカは退屈したのか、良平のエプロンを勝手にかけて、スタッフのような顔をして店内をうろついた。見ていると、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の発声も明るく、注文取りやテーブルの片付けも問題なかった。本人申告のバイト経験も、どうやら嘘ではないようだ。  良平が帰ってきて、自分のエプロンをサヤカが勝手につけているのを見たら、さぞかし怒るだろう。怖ろしい。  十二時を過ぎて、センセエがやってきた。 「いらっしゃいませ」 「こんにちは。あれ? ジョージ来てない?」  ジョージというのは、センセエの大学の外語教員で、在日歴の長い男性だ。年齢はよく分からない。センセエと川崎さんとジョージは、よくなんだか分からない趣味の話で盛り上がっている。いわゆる「オタ友」だ。いくつになっても楽しそうで、よいことだ。 「いえ、今日はまだお見えになってませんが」 「あ、そう? 昼メシに来るって言ってたから、そろそろ来るよ」 「いつもありがとうございます」  センセエはごいんきょの隣にかけた。サヤカがしずしずと銀のトレイで水を運ぶ。 「あれ、君、ここで働いてるの? 良平くんは?」  貴広はカウンターの中から、置き型メニューをセンセエの前へ届けた。 「大学(ガツコー)行ってます」 「あれれー。彼が帰ってきたら、血を見るんじゃないの」  センセエは軽口を利いた。普段から若者を見慣れていて、彼らのしでかしそうなことがよく分かるのだろうか。 「カンベンしてくださいよ」 「あはは、大変だね、マスターも」  センセエは貴広の弱音をさらっと流して、話題を変えた。 「今、見てきましたよ。例の物件」 「は?」 「あの、ショッピングモールの向かいの」 「それはホントでございますですか?」  隣でごいんきょも目を輝かせる。第一線を退いたとはいえ、実業家の血が騒ぐのか。 「センセエ、行ってこられたんですか? いかがだったのでしょうか、そのお店」  センセエは数度うなづいた。 「ええ、ええ。車でひとっ走り回ってきただけですけどね。確かに間口も広く、ここの三倍くらいはありそうでしたよ。陽当たりもよかったけど、東向きだから、午後いつまでも陽が入ることもなく快適でしょうね」  センセエは見てきた限りのことを報告してくれた。確かにお店は閉まっていたそうだ。  酒井さん情報だと、店は居抜きでそのまま譲るとのこと。ということは、席数が増えた分の食器やカトラリーの手当も不要。すぐその席数で営業できる。あとは厨房と、ホールを回すメンバーを揃えれば。  酒井さんは、そちらの方も、今急遽休みに入っているバイトさんたちに声をかければ、何割かは残ってくれるとの見通しを伝えくれていた。  本当に、こんな機会は、二度とない。 「お店、今は閉まってますけど、開いてるときはこんな感じです……」  センセエはカバンからタブレットを出して、Googleストリートビューを開いてくれた。ごいんきょは画面をのぞき込んで腕を組んだ。 「そうですねえ、確かにひとは集まりやすい場所でございますわねえ。ただ『コーヒー屋でござい』といっても少々難しいかもしれませんですが、何か名物になるメニューがあれば」  センセエとごいんきょ、そして貴広は顔を見合わせた。 「オムライス!」  そうかあ。ここでがんばるにしても、もっといい物件に引っ越すとしても、先立つものはオムライスなのかあ。 「それでしたら、ココよりも多くのお客さまにご来店いただけそうでございますね」 「そうですね、それは間違いないんじゃないでしょうか」  ごいんきょとセンセエはそう言ってうなずき合った。そして、「看板とロゴは菅原さん」「内装・外装は……」などと、勝手に移転オープンまでの担当を決め始めた。 「客数が増えれば売上も上がります。マスターもおヨメさんをおもらいになって、お子さんを授かって安心してお暮らしになれますですよ」  珍しくごいんきょが目を細めてそんなことを貴広に言った。  貴広は返事をせず、ただ曖昧に笑っていた。  普段はこんな話題が出ることはないのに。サヤカのせいでまったく、うっとうしいことだ。  カラ……ンと澄んだ音がした。 「ハーイ! こんにちはぁ」  そばかすに金茶の髪、ストライプの青シャツのジョージが現れた。 「いらっしゃいませ」  サヤカが笑顔でそう迎えると、ジョージは目を丸くして驚いた。 「ウワーオ。とらじゃさんで麗さん以来の女性スタッフさんですね」  ジョージはセンセエを指差して付け加えた。 「わたしは彼の友達のジョージと言います」 「サヤカです、よろしくお願いいたします」  ジョージはセンセエの後ろのボックス席に座り、ニコニコと貴広に話しかけた。 「マスター、男女差別ではありませんが、やっぱり女のコがいるとお店が華やぎますね」 「はあ。今だけの、その、ピンチヒッターですよ」  貴広は微妙な笑顔を浮かべて「まあその……身内のようなものでして」とごまかした。  サヤカが水とおしぼりを持って席へ行った。ジョージは嬉しそうにおしぼりを拡げた。 「そうですか。でもマスター、どうですか? ずっといてもらったら」  貴広は慌てた。 「そんな、とても給料を払いきれませんよ」  こんな小さな店、お客さまも常連さんのほかには数えるほどしか来ないのに。自分と良平のふたりが食っていくのがやっとだ。 「いやいや、そうじゃなく。ずっといてもらう方法には、いくつか種類があるじゃないですか」  またそういう煩わしい当てこすりを。おっさんめ!  サヤカが調子に乗った。わざとらしく頬を染めて目を伏せた。 「そうですよ、お兄さま。わたし、何ならずっとここにいたってよろしいのですから」  何が「よろしいのですから」か。夕べからのふてぶてしいもの言いはどこへ行ったやら。  貴広はサヤカにむっとした顔を向ける代わりに、朗らかに提案した。 「あはははは。みなさん、そろそろお昼にしませんか? ご協力くださいね」 「願ってもない」  メニューは当然、オムライスだ。 「うーん」 「大変おいしゅうございますけれど」 「そう、うまいんだよ。うまいんだけど」 「マスターのオムライスと、ちょっと違いますね」  うーん。  高広は常連さんたちと一緒に、皿の上に屈み込んだ。
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