八、五月十三日 水曜日 十五時

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 サヤカの出ていった扉を見やり、常連のゆうこさんが貴広の方を振り返った。 「マスター、大丈夫? いくら従妹さんとは言え、物をしまってある場所の鍵を渡しちゃうなんて」  ゆうこさんは心配してくれているのだった。さすがは経営者。サヤカの愛らしい見た目や仕草に、簡単にはダマされない。この辺、闇属性の会社役員とはいえ、根っこはやっぱりおっさんな栗田さんなどと違うところだと貴広は思った。 「ご心配、ありがとうございます。いえ、本当に何もないんですよ。洗車用のバケツとブラシくらいで。あと冬タイヤと」  ゆうこさんはみなから「ゆうこママ」と呼ばれている。近所でラウンジ「ゆうこ」を経営しているママさんだ。歳の頃は四十代の中盤くらい。  ごいんきょから聞いたところによると、若い頃虎之介に憧れて、ずいぶんと熱を上げていたらしい。ただ、祖父の方は祖母麗子にぞっこんだったので、ゆうこの憧れは憧れのままで終わったとのこと。  だからごいんきょは、 「麗さんと出会われる前のことだとしましても、あの虎之介さんに『隠し子』だなんて、信じられませんですねえ……」 と首を捻るのだ。イケメン役者だった割に、遊び歩くタイプではなかったらしい。案外真面目だったのか、それともそんな余裕なく貧乏だったのか。ただ常連さんたちの反応を見ていると、前者だったような気がしてくる。  貴広はゆうこママに笑いかけた。 「金目のものなんて一切ありませんよ。キレイなもんですから。あの子も開けてみて、拍子抜けするんじゃないですかね、何もなくて」 「そう? ならいいけど。って、それって『いい』ことなのかしら」  貴広とサヤカのやり取りを聞くともなしに聞いていた顔見知り客のみなさんは、ゆうこママの言葉にクスクスと笑った。店内には、ゆうこさんのほかに、月に何度か来てくれる三、四十代の女性客が三人。  朝からのんびりくつろいでいたごいんきょは、息子さんから電話で呼ばれて先ほど帰った。センセエとジョージは大学へ仕事しに戻った。代わりに、名前までは知らないがちょいちょい寄ってくれる近所の主婦のみなさんが三人ほど、優雅に紅茶を楽しんでいた。  彼女らは、買い物ついでにこの時間に来ることが多い。ケーキやアイスクリームの注文も入るので単価が高くなる。ありがたいお客さまだ。  ひとりでゆっくりしたそうなときは、そっとしておく。友達どうしのときには、話を振られたら入る。常連さんたちの話に反応しているときは、巻き込んで会話の輪に引き入れる。押しつけがましくならないよう気をつけながら、貴広は常連さんたちの緩い輪を緩いままに拡げようとした。  本来社交的でない自分にも、ひと恋しいときはあった。ひとりになりたいときも、誰かと話したいときも、どちらのときも居心地よい店でありたい。多分虎之介もそうだったのではないか。バランスを取るのはとても難しいことだけれども。 「どういう素性のコなのかしらね」  三人のうち、ちょっとスレンダーな美人タイプの奥さまが言った。 「じいさんの『隠し子』の娘だなんて言ってますからね。僕なんかより、みなさんの方がお詳しいんじゃないでしょうか」  貴広はゆうこママに助けを求めた。ゆうこママは首を振った。 「隠し子疑惑は、あの子じゃなくて、あの子のお父さまなんでしょ? だったら全然分かんないわよ、世代的に。もし仮にそうでも、新劇俳優時代のことじゃない? 麗さんに出会う前の話でしょ」  あのふたり、誰がどうやっても割って入ったりはできなかったもの。  ゆうこママは優しくそう言った。ゆうこママが優しくなれたのは、苦い恋が彼女を大人にしたからかもしれない。 「ほかに何か手がかりはないの?」  明るい色の髪を結い上げた女性が心配そうな顔で貴広に尋ねた。 「……そういえば、夕べ七時に『もう列車がないから帰れない』って言ってましたね」  貴広は「口実かもしれませんけど」と付け加えた。  ショートカットでアクティブな感じの最後のひとりが、目をくるくるさせて言った。 「あら、じゃあ、少なくとも札幌近郊ではないってことね」  三人は推理を進めていく。 「特急とかで行かないと、辿りつけない場所だわね」 「ここが七時ってことは、札幌駅が七時半でしょ? 岩見沢、旭川、小樽は消えるわね、全然間に合うもの」 「じゃあ、それより遠い、名寄以北? 道東だったら、旭川から向こう、北見、網走。もしくは帯広より向こう、釧路、根室。南だったら」 「そういえば、今は『夜行』ってないんだったかしら」 「函館まで行って新幹線なら……」 「駅から離れた郡部だってことも……」  お客さま同士で話を弾ませてくれる間、貴広はひと息ついてスマホを操作した。数行打って送信すると、すぐに返信が返ってきた。短いやり取りを数回繰り返し、フッとひと息ついて貴広はスマホを置いた。  ゆうこママが目ざとく気付いた。 「マスター、どうしたの? 忙しいの?」  貴広は首を振った。 「ああ、いえいえ。良平くんですよ、バイトの。講義終わって帰って来るっていうんで、買い出し頼んだんです」  貴広の言葉に、ゆうこママは優しく微笑んだ。
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