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十一、五月十四日 木曜日 十時
開店早々、常連のごいんきょとセンセエがやって来た。
ごいんきょはいつもと同じくカウンターで、良平と話したり、外の通りをドア越しに眺めたりして、楽しそうに過ごしている。
センセエも同じくカウンターで、コーヒーを片手にノートPCを開いてパチパチしている。仕事か研究か、オタ友との交流か。
良平は来年に控えた就職活動に備え、ごいんきょからポツリポツリと予備知識を仕入れているらしい。どんな職業を志望しているのか、貴広はあえてその話には加わらず、そっとしておいてやっている。
カワイイ若女子枠に突如出現したサヤカだが、三日目ともなるとレア度が薄れ、ただそこにいるだけではチヤホヤされなくなってきた。
木曜は講義のない良平がずっと店にいるせいで、「従兄の店を、かいがいしく手伝う健気な女のコ」という役も失ってしまった。
貴広も、お客さまがヒマそうにしていれば適度に話しかけることもあるが、何かと面倒なことになりそうで、あえてサヤカを構いには行かなかった。サヤカは奥のボックス席で、憮然としてスマホをいじっている。
フリー客が会計を済ませて出ていった。そのカラ……ンという音が鳴り止む前に、カスガ・フーズの酒井さんが再び鐘を鳴らし現れた。
「毎度っ! マスター、あの話考えてくれた?」
良平がカウンター席に水を出した。酒井さんのいつもかける、入り口に近いスツールの前に。
貴広は軽く頭を下げた。
「毎度さまです。お忙しそうですね」
「いやあ、まあね。いろいろと」
酒井さんは良平がグラスを置いた席に、浅く腰かけた。
「お、良平くん、今日は学校は?」
「あー、木曜は講義ないんで」
酒井さんはよく気のつく営業で、バイトの良平にも分け隔てなく声をかけてくれる。良平の愛想ないのがかえって申し訳ない。
酒井さんは今日も「ブレンドを」とオーダーを入れてくれた。貴広はうなずいて、コーヒーポットにドリッパーをセットした。
貴広はドリッパーに湯を細く注ぎ始めた。挽いたコーヒーが水分を吸って膨らんでいく。
新鮮な豆は湯を注ぐとふっくらと泡立ち、馥郁とした香りが立ち昇る。ここで湯滴のペースが速くても遅くても、泡は壊れ、香りが逃げていって、落ちたコーヒーの味が落ちる。
決して不器用な方ではないが、貴広が安定してこの細さで湯を注げるようになるのに三ヶ月かかった。
失敗して、おいしくないコーヒーになってしまったときは、赤字覚悟で廃棄した。一杯のコーヒーを出すのに三杯分、四杯分の豆を無駄にしたり。その三ヶ月間というもの、カスガ・フーズさんからの仕入れ額は、売上に比してかなり大きかったものだ。
酒井さんは、おいしいコーヒーの落とし方を、繰り返しレクチャーしてくれた。営業さんというのは、ここまで自分でできるようになるものなんだと、貴広は内心驚いた。それほど、自社の供給製品に責任を持って取り組んでいる。
酒井さんは、取り扱い商品に対してマニアックで、追求型の営業スタイルなのだった。
「昨日のお話も急でしたけど、お返事もそんなにお急ぎだったんですね。昨日の今日ですよ」
貴広は嫌みに取られないよう、なるべく穏やかな口調を心がけて酒井さんにそう言った。
「いやあ、急かせるみたいで、ごめんね。でも、いい物件だしさ。正直、先着順みたいなとこがあってさあ」
酒井さんは申し訳なさそうに早口で言った。
貴広はそう謝る酒井さんに、軽く首を横に振った。
確かに、入るなら、早い方がいい。
店舗が空いたままで長く経つと、それまで入っていたお客さんが離れてしまう。その建物なり地なりの「気」が薄らいで、ひとの流れが絶えてしまうのだろうか。砂糖に群がるアリのように。
早く新しいオーナーに引き渡したい、ご店主さんの事情も聞いている。
貴広が酒井さんのブレンドを落としている横で、良平は黙々とレタスをちぎっていた。ランチ用のサラダは一度こうして水に放し、シャキッとさせておくとおいしい。
よく働く子だ。貴広は良平の指が荒れていないか気になった。真冬の頃よりは、多少水もぬるんできたが。貴広には分かっていた。良平は、貴広が酒井さんの話にどう返事するのか気になって、聞き耳を立てている。
「お待たせしました。ブレンドです」
貴広はカウンター越しに腕を伸ばした。酒井さんは「いただきます」とカップを取った。
常連さんたち……ごいんきょ、センセエ、みんなが良平と同じように、固唾を飲んで自分がどう返事をするのか見守っていた。
「みなさん、視線が痛いんですけど」
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