十二、五月十四日木曜日 十二時

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「懐かしゅうございますねえ。虎之介さん、芸達者なひとでいらっしゃいましたよ。興が乗ると見得を切って見せてくださったり、落語なんかも二、三本おできになってねえ」  ごいんきょはしみじみそう言って、センセエの方を向いた。 「センセエとは、シェークスピアでらっしゃいましたよね」  センセエはうなずいた。 「新劇時代は翻案劇もかけてたそうですね。下積みだったでしょうけど、『マクベス』なんて詳しかったですよ」 「ママの麗さんもおキレイなひとでしてねえ。ご存じでらっしゃいます? 歌がとてもお上手でらしたんですよ」  ごいんきょが貴広に笑顔を向けた。 「美空ひばりや、ビリィ・ホリデイなんかがとくにお得意でらして」  貴広が祖父母と過ごした古い記憶には、残念ながらそうした芸事にまつわるものはない。  ごいんきょがふっとため息をついた。 「……息子さんはとてもお出来がよくてらして。おふたりとは全然タイプの違う真面目なひとでらしたから、反発して出ていってしまわれましたけれども。……こんな立派なお孫さんが戻っていらしてくださって」 「そうそう。それを見られただけで、俺たちはさ、思い残すことないんですよ」 「だから」  ごいんきょが、センセエが、貴広に大きくうなずいて見せた。 「行きなよ、新しい店に」  マホガニーのドアの向こうを、賑やかな宣伝トラックが通り過ぎていった。店の前の信号機から、鳥のさえずりが聞こえてくる。 「いやなに、車でひとっ走りですから。しょっちゅう通いますよ。おいしいオムライスが復活したんだ。わざわざ食べにいく価値があるってものさ」 「わたくしだって、たまにひとつタクシーをつかまえまして、ご尊顔を拝しにうかがいますよ」  常連さんたちは代わる代わる言った。妙に明るい声を出して。  貴広はぼそりと答えた。 「行きませんよ」 「はあーっ!?」  全員の視線が再び貴広の顔に集中した。 「痛い痛い。みなさん、視線向けすぎ」  貴広は頬をさすった。  酒井さんが慌てて立ち上がった。 「じゃあマスター、この話、断るってこと? 断っちゃうの? いいの?」  酒井さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。  貴広はカウンターの中から腕を伸ばして、ごいんきょと酒井さんの皿を流しに下ろした。 「あれから僕もざっくり試算してみましてね」  良平がカウンターを出て、カウンター奥に座ったセンセエの食器を貴広の手の届く位置へ寄せた。サヤカがやってきて皿を洗う。貴広はランチのコーヒーを落とし始めた。 「売上は確かに上がりますよ。うまくやれば、多分三倍くらいにできるでしょう。でもその分経費も増えます。計算してみたら、ココにいるのと、結局収支はあまり変わらない」  良平が作業台に人数分のカップを並べ、残った湯でそれらを温めた。酒井が顔の前でぶんぶんと両手を振った。 「大丈夫大丈夫! しっかり利益が残るように、俺教えるし。店舗内レイアウトやメニュー構成から一緒に考えよう」  貴広は良平の準備したカップにコーヒーを注いでいく。 「祖父が死んで、日本に戻って来られない父の代わりに、ここを引き継いだあのときに」    貴広はカウンターにコーヒーを出す。良平が重ねたソーサーとコーヒーの入ったカップをトレイに載せ、手際よく客席に配って歩いた。 「金のためにあくせくするの、止めたんです」  貴広はキッパリ言い切った。 「それが、祖父の本当の遺産です」  ひと目を気にして、普通に生きて。それなりに優秀であると評価されるため、満員電車に詰め込まれて出社し、過剰なほどに気を遣って、終わらないタスクを終わらせて夜中の電車で帰る。金は稼げるが、何のために稼いでいるのか、貯まる金の使い途すら見つからなくて。  そんな「普通」の生活から、脱出できたこと。それこそが、祖父が自分に残してくれたものだ。貴広が心の底から感謝している、祖父の遺産だ。 「じゃ、このコに二号店をやってもらおう?」  酒井さんは良平の袖を捕まえて食い下がった。良平は間髪入れず「ムリ」と答えた。 「俺、まだコーヒーの淹れ方安定してないし。まだ学生だから、あんなとこじゃ学校に通いにくくなるし、それに」  良平は唇をかみ、酒井さんの指から力が抜けた一瞬を見抜いてスルリと抜けた。  小走りにカウンターの中へ逃げてくる良平に、サヤカが厳しくツッコんだ。 「『それに』何よ?」  良平は貴広の背に身体を半分隠して、サヤカをキッと睨んだ。 「何だっていいだろ!?」  サヤカは「ふふーん」と不敵に笑った。 「とくに思いつかなかったんでしょー」 「うるさいな」  ああ、また始まった。貴広はげんなりした。ひとつ片付いたらまたコレだ。そんな貴広の気持ちを知ってか知らずか、サヤカは今度は貴広に噛みついてきた。 「お兄さま、後はもう一ヶ所しか残っていませんの。お二階を拝見してよろしいですわね」 「よろしい訳ないだろ! 何でだよ?」  良平が勢いよく言い返した。サヤカはそちらには構わず、細い指を合わせて「お願い」をした。 「店の中、車庫と探して見つからなかったのよ。あとはもうそこだけです。お願いしますお兄さま」  サヤカの甘い微笑みに負けることなく、貴広はキッパリと断った。 「ダメだよ。君のような若い女性を上げることはできません。それにさっきも言ったけど、じいさまの遺産は『この店』で、台本なんかなかったし今もない」  サヤカは唇を尖らせて何か考えている。この子は何を狙っているのか。目的は何なのか。  何を待っているのだろうか。  貴広のガマンは限界を越した。これ以上サヤカに引っかき回されてはたまらない。大事な良平にこれ以上の負担を強いるのも嫌だ。 「それに君、あのひとの本当の血縁じゃないよね。おかしいんだ。祖父の本当の身内なら、彼を『虎之介』なんて呼ばない。なぜなら」  そのとき。  カラン!と扉の鐘が勢いよく揺れた。 「沙耶香!」  みんなが一斉に扉の方を振り返った。
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