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「懐かしゅうございますねえ。虎之介さん、芸達者なひとでいらっしゃいましたよ。興が乗ると見得を切って見せてくださったり、落語なんかも二、三本おできになってねえ」
ごいんきょはしみじみそう言って、センセエの方を向いた。
「センセエとは、シェークスピアでらっしゃいましたよね」
センセエはうなずいた。
「新劇時代は翻案劇もかけてたそうですね。下積みだったでしょうけど、『マクベス』なんて詳しかったですよ」
「ママの麗さんもおキレイなひとでしてねえ。ご存じでらっしゃいます? 歌がとてもお上手でらしたんですよ」
ごいんきょが貴広に笑顔を向けた。
「美空ひばりや、ビリィ・ホリデイなんかがとくにお得意でらして」
貴広が祖父母と過ごした古い記憶には、残念ながらそうした芸事にまつわるものはない。
ごいんきょがふっとため息をついた。
「……息子さんはとてもお出来がよくてらして。おふたりとは全然タイプの違う真面目なひとでらしたから、反発して出ていってしまわれましたけれども。……こんな立派なお孫さんが戻っていらしてくださって」
「そうそう。それを見られただけで、俺たちはさ、思い残すことないんですよ」
「だから」
ごいんきょが、センセエが、貴広に大きくうなずいて見せた。
「行きなよ、新しい店に」
マホガニーのドアの向こうを、賑やかな宣伝トラックが通り過ぎていった。店の前の信号機から、鳥のさえずりが聞こえてくる。
「いやなに、車でひとっ走りですから。しょっちゅう通いますよ。おいしいオムライスが復活したんだ。わざわざ食べにいく価値があるってものさ」
「わたくしだって、たまにひとつタクシーをつかまえまして、ご尊顔を拝しにうかがいますよ」
常連さんたちは代わる代わる言った。妙に明るい声を出して。
貴広はぼそりと答えた。
「行きませんよ」
「はあーっ!?」
全員の視線が再び貴広の顔に集中した。
「痛い痛い。みなさん、視線向けすぎ」
貴広は頬をさすった。
酒井さんが慌てて立ち上がった。
「じゃあマスター、この話、断るってこと? 断っちゃうの? いいの?」
酒井さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。
貴広はカウンターの中から腕を伸ばして、ごいんきょと酒井さんの皿を流しに下ろした。
「あれから僕もざっくり試算してみましてね」
良平がカウンターを出て、カウンター奥に座ったセンセエの食器を貴広の手の届く位置へ寄せた。サヤカがやってきて皿を洗う。貴広はランチのコーヒーを落とし始めた。
「売上は確かに上がりますよ。うまくやれば、多分三倍くらいにできるでしょう。でもその分経費も増えます。計算してみたら、ココにいるのと、結局収支はあまり変わらない」
良平が作業台に人数分のカップを並べ、残った湯でそれらを温めた。酒井が顔の前でぶんぶんと両手を振った。
「大丈夫大丈夫! しっかり利益が残るように、俺教えるし。店舗内レイアウトやメニュー構成から一緒に考えよう」
貴広は良平の準備したカップにコーヒーを注いでいく。
「祖父が死んで、日本に戻って来られない父の代わりに、ここを引き継いだあのときに」
貴広はカウンターにコーヒーを出す。良平が重ねたソーサーとコーヒーの入ったカップをトレイに載せ、手際よく客席に配って歩いた。
「金のためにあくせくするの、止めたんです」
貴広はキッパリ言い切った。
「それが、祖父の本当の遺産です」
ひと目を気にして、普通に生きて。それなりに優秀であると評価されるため、満員電車に詰め込まれて出社し、過剰なほどに気を遣って、終わらないタスクを終わらせて夜中の電車で帰る。金は稼げるが、何のために稼いでいるのか、貯まる金の使い途すら見つからなくて。
そんな「普通」の生活から、脱出できたこと。それこそが、祖父が自分に残してくれたものだ。貴広が心の底から感謝している、祖父の遺産だ。
「じゃ、このコに二号店をやってもらおう?」
酒井さんは良平の袖を捕まえて食い下がった。良平は間髪入れず「ムリ」と答えた。
「俺、まだコーヒーの淹れ方安定してないし。まだ学生だから、あんなとこじゃ学校に通いにくくなるし、それに」
良平は唇をかみ、酒井さんの指から力が抜けた一瞬を見抜いてスルリと抜けた。
小走りにカウンターの中へ逃げてくる良平に、サヤカが厳しくツッコんだ。
「『それに』何よ?」
良平は貴広の背に身体を半分隠して、サヤカをキッと睨んだ。
「何だっていいだろ!?」
サヤカは「ふふーん」と不敵に笑った。
「とくに思いつかなかったんでしょー」
「うるさいな」
ああ、また始まった。貴広はげんなりした。ひとつ片付いたらまたコレだ。そんな貴広の気持ちを知ってか知らずか、サヤカは今度は貴広に噛みついてきた。
「お兄さま、後はもう一ヶ所しか残っていませんの。お二階を拝見してよろしいですわね」
「よろしい訳ないだろ! 何でだよ?」
良平が勢いよく言い返した。サヤカはそちらには構わず、細い指を合わせて「お願い」をした。
「店の中、車庫と探して見つからなかったのよ。あとはもうそこだけです。お願いしますお兄さま」
サヤカの甘い微笑みに負けることなく、貴広はキッパリと断った。
「ダメだよ。君のような若い女性を上げることはできません。それにさっきも言ったけど、じいさまの遺産は『この店』で、台本なんかなかったし今もない」
サヤカは唇を尖らせて何か考えている。この子は何を狙っているのか。目的は何なのか。
何を待っているのだろうか。
貴広のガマンは限界を越した。これ以上サヤカに引っかき回されてはたまらない。大事な良平にこれ以上の負担を強いるのも嫌だ。
「それに君、あのひとの本当の血縁じゃないよね。おかしいんだ。祖父の本当の身内なら、彼を『虎之介』なんて呼ばない。なぜなら」
そのとき。
カラン!と扉の鐘が勢いよく揺れた。
「沙耶香!」
みんなが一斉に扉の方を振り返った。
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