十三、五月十四日木曜日 十三時

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十三、五月十四日木曜日 十三時

「沙耶香!」  パーカーにジーンズ、明るめの前髪はやや長め。取りたてて珍しいところのない若者が、店の扉を引き店内をのぞき込んでいた。  どこから走ってきたものか、若者は肩で息をしている。言葉が出ない。  長い数秒ののち、ようやくごいんきょが尋ねた。  「どちらさまです? こちらの森井サヤカさんのお知り合いの方でいらっしゃる?」  若者は大きく首を振った。 「森井サヤカ? 違いますよ。彼女の名前は岡本沙耶香。『森井』はこちらのマスターのお名前でしょう」  彼は早口でそう答えた。サヤカがボックス席からそっと立ち上がった。肩がふるふると震えている。 「順ちゃん……!」 「どーした順也。大学は?」  震えるサヤカとほぼ同時に問うたのは。  センセエだった。  若者はセンセエの声のした方へ向いた。 「父さん」 「えーっ!?」  今度はみな一斉にセンセエを振り返った。 「バカッ! どうしてもっと早く来ないのよ」 「沙耶香ちゃん……」 「もう! こちらのマスターにものすごくご迷惑かけちゃったじゃない。分からなかったの? わたしがどこにいるか」 「ごめん。ごめん沙耶香ちゃん。俺、一生懸命探したんだよ。大学のみんなは誰も何も知らなかったし、劇団にも行ってみた。別海の実家にも帰ってないって言うし。でも、どこにもいなくて……」 「当たり前よ! そんな、すぐ見つかっちゃうようなところに避難してる訳ないでしょ」 「『避難』って何だよ。俺、沙耶香ちゃんにそんなひどいことしたか?」 「ひどいわよ! 順ちゃん、あたしの考えなんて、一個も聞いてくれてない」 「『一個』もなんて。いつも何でも聞いているじゃないか」 「『いつも』の話なんてどーでもいいのっ! 今はオーディションの話をしてるんじゃない」 「いや……だからさ……」  センセエが立ち上がりボックス席に移った。センセエが向かいの席を指し示し、若者は素直にそこへ腰を下ろした。その隣にちょこんとサヤカが並んで座った。  良平がコーヒーを運んでいった。青年は礼儀正しく頭を下げた。 「……で」  誰も口を開こうとしないので、しようがなく貴広は水を向けた。 「君は結局、誰だったんだい?」  どこから突っ込むべきか分からないので、貴広は自分の従妹をかたったサヤカにそう訊いた。この騒動の中で、多分……唯一……自分と関わりのある部分だ。 「……」  サヤカはばつ悪そうに目を伏せて黙っている。隣の若者が説明した。 「このひとは、岡本さんです。岡本沙耶香さん」  若者はポッと頬を赤くした。 「僕の、その……」 「はいはい。『彼女』さんね」  心の底から面倒そうに、良平が話を進めた。 「そんで? 何でマスターの従妹を名乗って、ここへ乗り込んできた訳? 『遺産』って何? 嘘までついて。ただの痴話ゲンカにしちゃ、ムチャムチャ迷惑なんだけど」 「すみません……」  ようやく沙耶香が口を開いた。肩を縮こめてうつむいている。さっきまでの強気な「サヤカ」ではない。口調も表情も穏やかだ。 「謝ってくれても、あんたに煩わされた時間は戻ってこないよ」  良平は小さくぼやき、そっぽを向いた。貴広は「まあまあ」と良平の肩をさすった。 「で、その『岡本さん』が、どうしてウチの祖父の関係者を名乗ってやってきたの? さっきも言ったけど、本当の関係者じゃないことは、最初からまあまあ分かっていたんだけど」  沙耶香の唇がかすかに動いた。 「ご……ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました。あの。……あの、わたし」  良平がヒュッと息を吸った。きっとまた何か辛辣なことを言う。だが、ここで沙耶香を責めてもしようがない。カウンターの中で貴広は、脚立を開いてそこへ良平を座らせた。立っているより座っている方が、次の行動に移りにくいものだ。  若者が、うつむく沙耶香を心配そうにのぞきこむ。  貴広はもうひとりの重要人物に尋ねた。 「そして、センセエ。このひとたちはどなたなんですか? 息子さん?」 「ああ……」  珍しくセンセエが口ごもっている。どこから説明したものか、センセエはセンセエで、考えあぐねているようだ。 「……すまんね、マスター。まさかこのお嬢さんが、わたしのところの関係者とは思いもしなくって。ご迷惑をおかけしました」  貴広は黙ってその先を待った。 「お察しのとおり、そこのあんぽんたんは、ウチの息子です。順也と言います。そしてそちらのお嬢さんと、お付き合いして……るんだよな、あんぽんたん?」 「そうだよ」  順也はムスッとしてうなずいた。「『あんぽんたん』って……いつの言葉だよ」と順也はぼやいた。 「お前は釧路にいるはずだろ。大学は休んできたのか? そしてこのお嬢さんは? 同じ学生なのか?」 「そう。同じ大学の、一学年下」  順也も、彼女を親に紹介するタイミングは、自分で選びたかったろうに。 「専攻科も同じなのか?」 「いや、彼女は国語専攻」 「そうか」  …………。 「いや! 『そうか』じゃなくってね!?」  酒井さんが突っ込んだ。 「できれば早く進めてくれませんか? 俺もそこそこ忙しい身でしてね」  
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