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演技、だったのか。
「順ちゃん、気付くの遅いよ」
沙耶香はようやく顔を上げた。
「喫茶トラジャの話は、全然関係ないあたしが聞いても、とってもいいお話だった。いったんは人生を賭けた芝居を諦めて、ママさんと穏やかに暮らすのを選んだマスター。看板女優の立場を捨てて、自分を選んでくれたマスターを死ぬまで支えたママさん。……あたしにそんな話を聞かせておいて、あたしが看板女優を目指すの、どうして止めるの?」
ん?
看板女優?
貴広が訊き返すより先に、センセエが口を開いた。
「沙耶香さん、女優って、どういうことだい? そんで順也、お前反対してるのか」
順也は唇をへの字に曲げて目を伏せた。
彼らの座るボックス席へ、貴広はランチの皿を運んでいった。たった今完成したばかりの、この店の看板メニューを。
「今釧路から着いたなら、お昼ご飯まだなんじゃない? 『喫茶トラジャ特製オムライス』、よかったら食べてよ」
順也は顔を上げた。
「あ……、ありがとうございます、いただきます」
貴広は、「安心して、お代はお父さんの方につけとくから」と笑った。
順也がスプーンを口に運んでいる間、沙耶香はポツポツと語り始めた。
「あたしは演劇がやりたくて、中学生の頃から演劇部に入ってました。でも、釧路にいたんじゃその先がない。最終的に地元の劇団に入るにしても、どこかでもっと実力をつけないと通用しない。別にあたしは、実家住みにこだわる理由もない。チャレンジしたいんです。それで」
沙耶香は映画の新人発掘オーディションに応募したのだそうだ。書類選考が通り、次の選考は東京……というところで、順也に反対されたと。
順也はもぐもぐと口を動かしながら、黙って彼女の話を聞いている。貴広も、良平も、ほかの常連さんたちもじっと聞き入っていた。高めの澄んだ声だった。
「北海道にいるのがイヤなんじゃないの。いずれは地元の劇団で看板女優になれればとても嬉しい。でも、それには実績が必要なのよ。今回の仕事がダメでも、東京にいればチャンスだけはある。釧路にいたら、いいえ、札幌に出てきたって、北海道にいたままじゃ、実績を積むチャンスそのものが皆無なのに……」
「『皆無』ってことはございませんと思いますけれども。確かに沙耶香さんのおっしゃる通り、実力を身につける機会そのものは、いささか少のうございますわねえ」
ごいんきょがゆったりとした口調でそう言った。
「それに、『中央信仰』と申しますか、こちらでお仕事をなさるにしても、東京で活躍なさっていたという経歴がございますと、周囲の見る目が変わるものでございます。ええ」
ごきんきょが携わってきた業種は多岐に渡るが、主要なひとつに「宮部興業」というのがあった気がする。ごいんきょは、こうした興業もの、つまりイベント系のエンタメを、ずっと生業にしてきた事情通だった。
沙耶香はごいんきょの言葉に大きくうなずいた。
順也くんはまた下を向いた。
「それはそうかもしれないけど……」
貴広が受けた印象では、順也はかなり真面目な学生だ。そこそこ優秀でセンセエの自慢の息子なのに、入学志望者が多くて倍率の高い札幌の大学に進まず釧路を選んだ辺り、挑戦をしない堅実な性格なのだろう。
そんな子が、当たるか当たらないか分からない、当たる確率がほとんどゼロに等しい役者なんて危険な道を、恋人に歩ませたくないと思っても、無理はない。
だが、人生に「絶対」はないのだ。
貴広にしたところで、そこそこ名の通った大学を出て商社に入ったときは、このまま金に困ることなく一生暮らせると信じていた。それが、紆余曲折あって、今はこんな小さな喫茶店をやっている。
一応何とか食えているが、商社マン時代の貯金には手を付けないよう、注意を払っての毎日だ。
どんな道を選んだとしても、順也の好みに合うような、「ハズレのない人生」なんてあり得ない。
「だから、とりあえず一度オーディションを受けてみたいの。そんな、すぐにお仕事が来るとは思ってない。でも、オーディションの感じで、あたしががんばれそうかどうか考える。一緒に受けるほかのひとからも、いろいろ話を聞いてこようと思ってるし」
沙耶香は隣の順也の方へ向き直った。
「あたしはまだ、本気で東京に出ると決めた訳じゃないのよ。そのための情報を集めたいって段階なの。結論も出してないのに、いきなり反対しないで」
順也はスプーンを持ったまま何も言えない。
センセエがのんびりと言った。
「あー、何だ。沙耶香くんをひとりで東京に出すのがイヤなら、お前も東京で大学院を探せばいいだろ。いないのか? 学会で見た中で、『いいな』と思う先生とか」
「と……父さん……」
順也は目を白黒させた。
さすがセンセエ。沙耶香本人がまだ結論を出していないのに、気の早い話だ。
だが、順也は多分、賢くて、先々を読みながら計画的に生きたいタイプだろう。なら、ずっと先の可能性まで見通せた方が、これから選択することを冷静に判断できるのかもしれない。父親ならではの助言なのか。
順也は黙って考えている。
常連さんたちは、彼らを固唾を呑んで見つめている。
しばらくして、順也はようやく「分かったよ」と呟いた。
「……オーディション、がんばって」
沙耶香は無言で順也の腕を握りしめた。
「よしよし、いい男になったな、お前」とセンセエは言った。
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