一、五月十二日 火曜日 十三時

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一、五月十二日 火曜日 十三時

 カウンターに処狭しと並べられた洋食皿は、黄色く、赤く、さながらチューリップの咲き始めた小学校の花壇のようだ。 「……どこかが、違う……」 「そうなんだ。ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ違うんだよ」 「ほんのちょっとだけなのに……」  常連たちが顔を見合わせ、 「そこが一番大事なんだよなあ」 とハモってカウンターに突っぷした。 「……俺、もう食えないっす」  カウンターの中ではバイトの良平が、調理台の上に突っぷしている。 「みなさん……そんな倒れるほどマズイですか……」  店主の森井貴広が、皿の隙間に湯気のたつコーヒーカップを押しこみながら、引きつり笑いを浮かべる。 「違うマスター。そうではない……」 「そうそう。オムライス二皿はキツいってだけで」 「もはや俺たち……若くない……そこの良平くんと違って」  良平は「若くても、オムライス二皿は普通にキツかったです」と呟いた。 「ごめんごめん。バイト代のほかに、好きなだけコーヒー飲んでいいから」  貴広はスタッフ用のアルミカップにコーヒーをタップリ注ぎ、冷蔵庫から牛乳を取り出してカフェオレにした。やけどしないよう、把手を向けてやる。良平は黙ってその細い指を把手に絡ませた。 「はあ……」  カウンターの向こうとこちら両方で、コーヒーの湯気にひと息ついた男たち四人。  寂れかけた喫茶店は、それでも一応ランチ客がひけ、常連たちが往年の看板メニューの再現につき合っていた。 「何が足りないんでしょう。思いつくことはもう全て試しましたが」  貴広はぼやいた。 「サラダ油にバター半々、バターたっぷり、サラダ油だけもやってみました」  常連の栗田さんが湯気の向こうで口を開く。 「……いや……鼻先に香る記憶には、確かに乳製品の存在感が」  栗田さんの隣でセンセエが同意した。 「そうそう。卵を焼くのにバターは使ってた。そこは間違いない。ただ、サラダ油と混ぜてたか、割合がどうだったかまでは、見当がつきませんけどね」  オムライス。決してまずくはないというか、そこそこおいしいのだが。  やはり何かが違うらしい。  良平は腰かけていた脚立をたたみ、カウンターの皿を下げはじめた。食べのこしを手ばやくフードパックに移し、ふたりの客の前にそれぞれ置いた。 「ああ、済まんね、良平くん」  センセエが軽く頭を下げる。 「いえ。もう食べあきてらっしゃるかもですけど」 「ははは。マスターも、いつもありがとう」 「いえいえ。ご自宅ではもっとおいしいお食事でしょうから、ホント恐縮ですが。捨てちゃうのもアレなんで」  貴広は「いつもおつき合いくださってありがとうございます」と丁寧に礼を言った。  自分は食べたことのない。この店の看板メニューを再現する。  今回の攻略テーマは、難易度がずいぶんバグっていやしないか。  それにしても、一度に二種類の味チャレンジは、やり過ぎだったかなと貴広は反省した。 「大体、自分が食べたこともない味を再現しようなんて、ムチャなんですよ。それってそもそも『再現』って言わないすよね」  シンクで食器を洗いながら良平がそう言って唇をとがらせる。 「いやあ……だから、こうして当時の味を知るみなさんに、ご協力いただいてるんじゃない」  貴広は常連の栗田さんとセンセエに笑顔を向けた。ふたりは大きくうなずいた。 「いずれにしても、この店を続けていくんなら、何かしらの看板メニューはないと」 「そうだけど」  良平はキュッと水を止め、不機嫌そうに呟いた。 「……あんまり根を詰めすぎて、イヤになったりしないでくださいね。材料費だってバカにならない」  貴広は「はいはい」と頭をかいた。  良平はそちらをチラッとにらみ、「店は続けてもらわなきゃ。俺、バイト先なくなると困るんですから」と下を向いた。 「そうだなあ。マスターには、しっかりこの店を続けてもらわなきゃ。わたしたちも、のんびりできる場所がなくなってしまう」  センセエがそう言うと、栗田さんも闇の部分をチラリと見せる。 「その通り……俺なぞ、職場にも家庭にも落ち着ける居場所なんて、ないんだからして……」 「いや、栗田さんはいっつもそんなこと言ってるけど、実はご家族円満なんでしょ? ウチなんかひどいもんですよ。息子は反抗期からこっちマトモに話したことない」 「男の子なんてそんなもんでしょう。僕だって親父とゆっくり話したりしないですよ」 「いやあ、マスターのとこは、そもそもお父さん日本にいないんだから」 「まあ、それは、そうなんですけどね」  貴広は苦笑した。 「だから、こうしていきなり祖父が亡くなって、途方に暮れちゃうんですよね。とにかく情報が少なすぎて」 「大変だねえ、マスターも。頼むよ、この店」 「はい、がんばります」  常連だけが長居する、営業的にはマズイが、この上なくのんびりと心地よい午後の空気が。  いきなり突風に破られた。  春の、嵐が。
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