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二、五月十二日 火曜日 十五時
「いらっしゃいま……」
「お兄さま! 会いたかった……!!」
クラシカルな鐘がカラ……ンと鳴って、入り口のドアが開いた。
年季の入ったマホガニーの扉はチョコレートのように四角くくり抜かれて、そこに飾りガラスがはまっている。懐かしい、昭和のたたずまいだ。
「は? どちらさまですか」
マスターの森井貴広はそう尋ねる間もなく、飛び込んできた少女に飛びかかられた。
「お兄さま……!」
「えーと、あのお」
軽いピンクのジャケットに、フリルのついたブラウスがのぞく。赤紺チェックの襞スカートの下、ネイビーブルーのリブタイツに包まれた脚は細い。
中学生? 大人の女性?
年齢不詳なその女性が、貴広の首っ玉にしがみついてぶら下がった。
「僕はたしかひとりっ子だったハズで、戸籍上もそうなってまして。そのぉ……お間違いでは?」
しがみつく腕をほどくにほどけず、困った顔をして貴広がそう言うと、少女はニッコリ笑ってこう言った。
「お目にかかるのは初めてですわ。わたくし、お兄さまの従妹のサヤカと申します」
カウンターに並んで座っていた栗田さんとセンセエが飛び上がるように立ち上がった。
「まあまあ、お嬢さん、よく来たねえ。いやあ、いらっしゃい」
「……あのマスターに会いに、従妹。しかもカワイイ。ちょっとばかり若いからって、マスターめ……呪われてあれ」
サヤカと名乗った少女の頭を撫でんばかりに、おっさんたちは相好を崩す。闇属性の栗田さんだけはおかしなことを口走っているが、これは平常運転だ。
貴広は助けを求めるようにカウンターを振り返った。磨いていたグラスを下ろし、バイトの良平が面倒そうにやってきて、貴広の首からサヤカの指をはがした。
良平はそのままサヤカの手を取り、カウンター前のボックス席に座らせる。起毛素材のソファは深い緑。案外長持ちする素材のようで、古い貴広の記憶とそう変わらない。色は少々、あせただろうか。
「従妹ってことは、虎之介さんの孫かい?」
ボックス席のサヤカの向かいに、センセエが陣取ってそう訊いた。貴広が呟いた。
「そんな馬鹿な。父はひとりっ子で兄弟なんかいないし、母は上に姉がいるけどずっと独身で」
サヤカは笑顔を崩すことなく、
「ご存じないのも無理はありません。わたしの父が生まれたことは、祖父も知らないこと。いわゆる『隠し子』という存在でしたもの」
と歌い上げるように語った。
栗田さんの目が、「『隠し子』とは」と鈍く光った。
「先代マスター、虎之介さんの昔の職業は、役者。すごいイケメンだったからには、旅先でもさぞモテていたに違いない。恨めしい。羨ましい。センセエ、何かお言葉を」
栗田さんは暗い声で祈るようにそう言って、センセエに振った。
センセエはボックス席で腕を組み、考えこむような顔をして宙をにらんだ。
「うーん、そうですねえ。先代のマスターは確かに美男子だったけど、奥さんの麗さんひと筋のようだったからねえ。疑うわけじゃないけど、お嬢さん、あなたのお父さまは、どちらでお生まれだい?」
サヤカの笑顔がふっと曇った。
「あ、あの、父も母も亡くなってますので、そうした詳しいことはよく……」
うつむいてしまったサヤカに、常連のおっさんたちは焦ってしまった。
「おやおや。ごめんねどうも。問い詰めようなんて積もりはみじんもなかったんだけど」
「とくに何かを疑っているという訳ではないのだ。ただ、突然このくたびれた都落ちマスターにカワイイ従妹が発生したという異常事態に、驚きのあまり……」
「……マスター、お嬢さんに何か温かいものを出してあげたら?」
センセエが振り返ったとき、ちょうどバイトの良平が無言でココアを運んできていた。良平が卓にコトリと置いたカップを、サヤカは静かに取りあげた。
良平は無言のまま、呆然とつっ立っている貴広の脇を通りすぎ、カウンターの端でエプロンを外した。
「じゃ、マスター。俺行きます」
「あ、ああ。いってらっしゃい。頼んだよ……」
常連さんたちも口々に「……買い出しかい?」「いってらっしゃい」と見送った。良平の背中で店の扉がまたカランと鳴った。
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