二、五月十二日 火曜日 十五時

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 貴広の祖父、森井虎之介は大学生だったため出征が遅く、兵隊に取られてすぐ敗戦を迎え復員してきた。  戦地での経験に考えるところがあったのか、虎之介はその後学業に戻ることなく、新劇の舞台に立とうと当時勢いのあった「劇団誠」に入団した。  が、芝居で食べていくことは容易でなく、数年で劇団を辞め、拾ってくれた大衆演劇の一座について日本国中を旅して回った。  旅の途中で一座の看板女優であった草壁麗子と恋に落ちるも、女優に手を出すなど論外、御法度中の御法度であり、一座にいられなくなったふたりは手に手を取って逃避行。流れ着いたが北海道。そこでふたりで働いて、ようやく溜めた資金でこの店舗兼住宅を手に入れた、と。  貴広はそう聞いているし、常連たちが折に触れ語ってくれる「虎之介さん」「麗さん」夫妻の思い出も、同じ物語の各エピソードであった。  その物語には、麗子以外の女性との交流は出てこない。  サヤカの父が虎之介の落とし胤だとすると、虎之介がドサ回り中のどこかの地で出会った土地の娘か、それとも新劇役者を目指した売れない極貧時代を支えてくれた歳上の女性でもいたものか。  いずれにせよ、祖母の麗子と出会う前、虎之介本人のあずかり知らぬことであったに違いない。 「……サヤカちゃんには悪いが、にわかに信じられない話ではある」  栗田さんが腕を組んだ。  栗田さんは東京でエリートサラリーマンをやっていたが、ヘッドハンティングで札幌の会社へやってきて、今はその会社の役員をしている。社会に出た頃は爽やか好青年だったというが、あまりの激務にすっかりひとが変わってしまい、ひとたび仕事を離れると闇堕ちキャラを隠すことができない。  まあ「爽やか好青年だった」というのも本人申告で検証のしようもなく、貴広も常連の面々も、話半分で聞いているのだが。 「まあまあ、若い頃なんて、いろいろなことが起こるもんだよ。晩年のひととなりからは、想像もできないような一面があることだって」  センセエさんはそう言ったあと、慌てて貴広に「あ、マスター、悪い。そういう意味じゃないんだ」と謝った、貴広は気にしていないと首を振った。 「センセエ」は五十代、長身細身の男性で、貴広も本当の名前を知らない。大学の先生らしく、みんなから「センセエ」と呼ばれている。いつもパリッとしたスーツに、少しクセのある髪をこざっぱりと上げていて、「二十年後はこうなっていたい」というモデルのような存在だ。  何かの趣味にハマっているらしく、ときおりそのオタ友と何やらオタグッズのアヤシイ取引場所に、喫茶トラジャを使うこと以外は。 「あなたのお父さんは、何年生まれ? 若くして亡くなったんだねえ、お気の毒に」  穏やかな口調でセンセエが訊いた。 「えっと、あのお……。父はわたしが十四歳のときに……」  サヤカは指を折って数え始めた。そこへまた鐘の音が鳴り、原色を幾何学模様に配したワンピースにつば広帽の女性が入ってきた。 「みなさぁん、こんにちは」  常連の菅原さんだ。年の頃は、多分栗田さんより上、センセエより下、くらい? 「おお、菅原さん。先日はどうも」 「んん? センセエ……、菅原さんに何か頼みごとを? 今度はどんな企みが?」 「『企み』って栗田さん……。いや、ウチの卒業生が起業して、企業ロゴを作ることにしたそうで、『いいデザイナーさんいないかな』って言うから、菅原さんを紹介したんだよ」  菅原さんはにこやかにヒールを鳴らして店内を進んだ。 「その節はありがとうございました、センセエ」 「いいロゴができたって、喜んでたよ」  菅原さんは絵描きさんだ。油彩画を描くが、展覧会の合間にはテキスタイルデザインから商業デザインまで幅広く手がけている。年齢は、貴広からは五十歳くらいに見えているが、女性の年はよく分からない。  センセエの後ろのボックス席に座って、菅原さんは大きく振り返った。 「で、みなさん。いったい何が起こっているの?」 「あ、マスター、わたしブレンドね」と貴広に声をかけて、菅原さんはサヤカと、彼女を取り囲む面々にそう尋ねた。 「いやあ、このお嬢さん、どうやら虎之介さんのお孫さんらしいんですけどね……」  センセエが説明を始める。サヤカは神妙な顔をしてココアを飲んでいた。 「ブレンドです」  貴広が菅原さんのオーダーを持っていった。「ありがと」と菅原さんは、手入れされた赤い爪でカップを持ち上げた。数秒香りを楽しんでから、おもむろにカップに唇をつける。三十を過ぎて突然相続した祖父の店を継いだ貴広を、厳しいが、優しく、辛抱強く育ててくれる常連さんたちのひとりだ。 「で? お嬢さんは何が目的で尋ねてきたの?」  菅原さんはボックス席の外に行儀よく脚を並べて、サヤカの方に向き直った。すぐに事態を把握したようだ。 「あ、あの、わたし……」 「前のマスターが亡くなってから、もう二年経つわよね。今までどうしてたの? どうして二年経ってから、ここへ来る気になったの? 何か、用があるのよね」  栗田さんが、「菅原さん……そんな、尋問するみたいな……」とボソボソ言って止めようとしたが、菅原さんは真顔で言った。 「いとこ同士、積もる話もあるでしょう? だったらあたしたち、遠慮しなきゃ。込み入った、他人に聞かせたくない話があるんじゃない?」  貴広は焦った。 「いえ、そんな、みなさんいてくださいよ。祖父のことは、二、三度しか会ったことのない僕なんかより、みなさんの方がずっとご存じなんですから」  押しの強いサヤカとふたりきりにされてはたまらない。  全員の視線がサヤカに集中した。サヤカは困ったように顔を赤くした。 「わたし……、わたし、両親を亡くして……。お祖父さまの遺産が欲しいんです」 「はあ!?」  今度は貴広が驚く番だ。  遺産?  そんなもの、あったらこんなことしていない。
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