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三、五月十二日 火曜日 十六時
貴広にも言い分はあった。
祖父が亡くなったとき――というか今もだが、父は日本にいなかった。
貴広の父であり虎之介の息子、森井和広は、辛うじてメールは飛ぶが、出ることも入ることもできない、地上の果てのようなところで仕事をしている。
祖父が亡くなったと連絡が入ったとき、当然貴広は和広にメールを送った。
和広は商社だかNPOだか、とにかくいろんな国に仕事で入る。たまたま入った国でクーデターが起こり、激しい内戦が続いている。戦火が収まらない限りは動きが取れないらしい。
和広は、自分は遺産を放棄するから、貴広に適当にやっておいてくれと言ってきた。遺産といっても大した額はないはずだが、もし借財の方が多かったら、お前も放棄せよと。自分の血筋のことで苦労するなと。
父と母はずいぶん昔に離婚していたが、貴広は母に助言を求めた。母と、彼ら祖父の店の常連さんたちの助けで、何とか葬式を出した。
貴広が調べてみると、確かに動産はないに等しかった。残っていたのは、先に亡くなっていた祖母とふたり、慎ましくやっていたこの店だけだった。財産もなかったが、借金の方も買掛金くらいでとくになかった。
貴広はサラリーマン生活に疲れていた。仕事は覚えたものの、周囲とそりが合わないし、そんな自分をさらけだすのも気が引けた。
このまま自分を隠して、激務に心身をやられそうになりながら定年までやっていくかと思うと、気が遠くなる。考えた末、貴広はサラリーマンを辞めてこの店を継ぐことにした。十年近い商社員生活でそこそこの金額が貯まっており、すぐすぐ食うに困ることもない。
相続をするときに、祖父の残したものは整理した。亡くなったことを役所に届け出、銀行口座も処分した。和広以外に、遺産を分割するべき家族は見当たらなかった。
とすると。
サヤカの言っていることが本当ならば、サヤカの父は虎之介に認知されていない、戸籍に母の名しかない庶子だということになる。
サヤカの話は要約するとこうだった。
曰く、自分は祖父虎之介の孫であり、貴広の従妹である。父が死ぬ間際に語ったところによると、虎之介は札幌で喫茶店を営んでおり、若い頃の思い出に「価値のある当時の物品」を大切に保管している。その頃の思い出の品々を調べると、自分がこの世に生まれた背景の一端でも分かるかもしれない。
自分はもう病気で訪れることは叶わないが、もし父を思う気持ちが少しでもお前にあるなら、自分が死んだあと、いつか祖父の許を尋ねて、過去の記憶を辿ってくれないか。
サヤカの父は、彼女にそう言いおいて亡くなったとのことだ。
「価値のある物品……?」
貴広はまた首を捻った。この動き、今日もうすでに何度目だろうか。
「……おかしい……虎之介さん、金がないから新劇を辞めて、旅回りの一座に入ったとわれわれは聞いている。この店を建てるときの資金も、貯めるのに長く苦労したと……」
栗田さんがそう言うと、「そうそう、そうよ。あたしたちはそう聞いてる」と菅原さんがうなづいた。
センセエは言った。
「まあ、無価値と思われるものでも、ある一部の界隈ではものすごい高値がつくというような、レアな物品もありますからね。例えば、親の家を整理していたら、汚い昔の手紙が出てきて、念のため捨てる前に骨董屋を呼んだら文豪の直筆だった……とかね。普通のひとが見たら、『知らんおっさんの殴り書き』で、ただのゴミでしょう」
「はあ……」
貴広は口をポカンと開けた。
文豪ならば分かる。だが自分の祖父は、若い頃ただの売れない役者だった。売れなかったらマニアも何もない。
カラ……ンとまた扉が開いた。バイトの良平が買い出しから戻ってきた。
「まだやってるんすか」
貴広の後ろを通りがかるとき、良平は呆れてそう言った。貴広はつい良平に目で助けを求めてしまった。良平は「ちょっと待っててください」と言って奥の階段を登っていった。
「さあ、君は何を求めているのかな」
センセエはサヤカにそう尋ねた。
「……台本、です」
「台本?」
貴広には心当たりがない。
「お祖父さまが若い頃に所属していた劇団、『劇団誠』の当時の台本が、あるはずなんです!」
六十年、七十年前の台本なら、それはもしかして、マニアの方々ならいい値をつけるかもしれない。だが、店にも居住部分にも、車庫にもそんなものはなかった。
「マスター、見覚えないの?」
「ありませんねえ……。祖父が亡くなったとき、それこそ全部見て回りましたからね。もともとよく整理されてて、老人の住まいにしてはものが少なかったですし、だから見逃してることも、ないと思いますよ」
「あるはずなんです」
サヤカは泣きそうな顔で訴えた。
サヤカの父も(もしかして、貴広のオジか)、罪作りなことをしたものだ。ないものをあるとささやいて、自分はとっとと死んでしまったとは。
あるものを「ある」と確認するのは簡単だが、ないものを「ない」と証明するのは難しい。さて、どうしたものか。
トントンと軽い足音がして、良平が階段を降りてきた。「喫茶トラジャ」は店舗兼住居。二階は居住スペースとなっている。祖父母は別に家を持つこともなく、生涯をここでふたりで暮らした。やや狭いが、風呂もトイレもあって充分住める。一度外へ出て裏へ回ると、小路側に向けて車庫もある。
「で? 何が問題なんですか?」
面倒そうにそう良平が貴広に尋ねた。
「じいさんの遺産がね、あるはずなんだって」
「は?」
「この家のどこかに、昔の、じいさんが新劇やってた頃の台本があるって聞いたんだって」
「ないですよ」
良平はにべもない。
「去年の大掃除したの、誰だと思ってるんですか。俺ですよ。そんなのありませんでしたよ」
「そうだよ、ないよ」
貴広は困った顔のまま良平を見た。そうして顔を見合わせていると、ボックス席でサヤカが大きく息を吸い込む気配がした。今度は何を言い出すのか。
まさにそのとき。
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