三、五月十二日 火曜日 十六時

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「毎度さまで~す!」  勢いよく扉が開いて、営業の酒井さんが飛び込んできた。  ごま塩頭を短く刈り込み、社名入りのベージュのジャンパーを着て、書類カバンを脇に挟んでいる。典型的なルートセールスの風体をした酒井さんは、見た目の通り、食品卸「カスガ・コーヒー」の営業担当だ。 「毎度さまです」  良平がいつも通りに挨拶した。営業がこの時間に来るのは珍しい。いつもはもっと早い時間、午前中の、開店直後と昼時の中間くらいにやってくる。 「マスターマスター、今日はいい話を持ってきた!」 「は?」  何だろう今日は。いつも穏やかで変化に乏しく売上も少ないこの店での毎日は、ハッキリ言って退屈に近い。なのに今日ばかりは何がどうなっているのか。 「いい物件が出たんですよ! ここから2㎞先のショッピングモールの向かい。あり得ない破格の金額です。席数も多いし、人通りが多いから繁盛間違いなし」 「はあ」  貴広は良平を振り返った。 「どこだろ」 「ほら、ここから西へ車走らせると、右側にデッカい何かあるじゃないですか」  良平は「あそこですよね」と酒井さんに確認した。 「そうそうそ。あのショッピングモールの、西向かい。並びに食品スーパーもあって、そっちもかなり繁盛してる」  常連さんたちも、そこがどんな立地か、思い出すことができるようだ。 「分かるー。わたしもよく行くわ、便利だから。車でチャッと行きやすいのよね」 「確かに……モールの駐車場は広いが、いつもたくさん車が入って……接触事故も多そうなウヒヒ」 「あそこなら、お店の駐車場が一杯になっても、スーパーやモールに停めたまま立ち寄ってもらえそうだ」 「モールの中にスタバがあるけど、この『喫茶トラジャ』とだったら棲み分けができるわよ。競合って感じには、ならないんじゃないかしら」 「待ってください」  貴広は腕を上げて、盛り上がる面々を制した。 「そんな話、聞いたばかりでまだ何も考えられませんよ。酒井さん、何だってそんな話出てきたんですか?」  酒井はカウンター席に腰かけた。 「いやあ、繁盛してるいい店なんだけど、ご店主さんが身体を壊してさ。前から『もう歳だからそろそろ辞めたい』って言ってたんだけど、これを機に店閉めるって。継承するお子さんも、従業員さんもいないし、誰か引き取ってくれないかって」  じっくりマッチングすれば、敷地も広いし上物もまだ新しいから、それなりの価格になるのだろうが、現店主は治療費のこともありすぐ現金化したいとの意向で、だからこその破格の条件なのだそうだ。今なら不動産会社も挟まないので、仲介手数料も不要だと。 「いい話なんだよぉ。俺、マスターのこと応援してるからさ。真っ先にここへ持ってきた」  ということは、貴広が断れば、すぐ次の店へ話を持っていくだろう。熟考している時間はないということだ。  良平が静かに酒井に水を出した。酒井は「あ、俺にもブレンドくれる?」とオーダーを入れてくれた。こういうところで、酒井の応援は口先だけでないことが分かる。  都会からやってきた貴広を受け入れ、歓迎し、応援してくれるのは、移民によって成立した北海道の風土によるものだけではない。祖父虎之介が、みなに愛されていたからだ。 「あのマスターの孫だから」。これが常連さんたち、取引先の営業さんたちの心なのだ。ありがたいことだ。  そして一方、不思議な感じもする。貴広自身は、祖父の性格や気配り、笑顔などをほとんど覚えていない。それほど接点の薄い肉親から、こんな恩恵を受けることになろうとは。 「いずれにせよ、詳しい条件を聞いてからじゃないと。二つ返事で『じゃあ、移ります』とはなりませんよ」 「だよねー。じゃちょっと、生臭いお金の話」  酒井は貴広を手招きした。貴広はそちらへ行く前に、やかんの中を確認している良平に耳打ちした。良平は目を上げて貴広にうなずいてみせ、素直にやかんに水を足した。  通り過ぎる車のライトが、マホガニーのドアに光る。しばらくすると夕暮れだ。  良平は酒井にブレンドを出し、コーヒーの入ったポットを持って客席を回った。 「コーヒーのお代わりいかがですか? 今日は特別にマスターからのサービスです」  常連さんたちは口々に「ありがとう」とカップを差し出した。そこへ丁寧に注ぎ足してやりながら、良平はテーブルを回った。最後、サヤカのテーブルで良平は足を止めた。 「コーヒー飲める? 飲めるなら、新しいカップに入れてくるけど」  サヤカは細い顎をグッと反らして言い返した。 「飲めます。いただくわ」  貴広が酒井の持ってきた物件情報を聞いている間、良平はサヤカの話を聞いてやればいいのかもしれない。が、良平はそうしなかった。  サヤカは憮然としている。ようやく自分の欲しいものの話ができると思ったところでの、酒井の来訪だったからだろう。見事に出鼻をくじかれた格好だ。
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