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「毎度さまで~す!」
勢いよく扉が開いて、営業の酒井さんが飛び込んできた。
ごま塩頭を短く刈り込み、社名入りのベージュのジャンパーを着て、書類カバンを脇に挟んでいる。典型的なルートセールスの風体をした酒井さんは、見た目の通り、食品卸「カスガ・コーヒー」の営業担当だ。
「毎度さまです」
良平がいつも通りに挨拶した。営業がこの時間に来るのは珍しい。いつもはもっと早い時間、午前中の、開店直後と昼時の中間くらいにやってくる。
「マスターマスター、今日はいい話を持ってきた!」
「は?」
何だろう今日は。いつも穏やかで変化に乏しく売上も少ないこの店での毎日は、ハッキリ言って退屈に近い。なのに今日ばかりは何がどうなっているのか。
「いい物件が出たんですよ! ここから2㎞先のショッピングモールの向かい。あり得ない破格の金額です。席数も多いし、人通りが多いから繁盛間違いなし」
「はあ」
貴広は良平を振り返った。
「どこだろ」
「ほら、ここから西へ車走らせると、右側にデッカい何かあるじゃないですか」
良平は「あそこですよね」と酒井さんに確認した。
「そうそうそ。あのショッピングモールの、西向かい。並びに食品スーパーもあって、そっちもかなり繁盛してる」
常連さんたちも、そこがどんな立地か、思い出すことができるようだ。
「分かるー。わたしもよく行くわ、便利だから。車でチャッと行きやすいのよね」
「確かに……モールの駐車場は広いが、いつもたくさん車が入って……接触事故も多そうなウヒヒ」
「あそこなら、お店の駐車場が一杯になっても、スーパーやモールに停めたまま立ち寄ってもらえそうだ」
「モールの中にスタバがあるけど、この『喫茶トラジャ』とだったら棲み分けができるわよ。競合って感じには、ならないんじゃないかしら」
「待ってください」
貴広は腕を上げて、盛り上がる面々を制した。
「そんな話、聞いたばかりでまだ何も考えられませんよ。酒井さん、何だってそんな話出てきたんですか?」
酒井はカウンター席に腰かけた。
「いやあ、繁盛してるいい店なんだけど、ご店主さんが身体を壊してさ。前から『もう歳だからそろそろ辞めたい』って言ってたんだけど、これを機に店閉めるって。継承するお子さんも、従業員さんもいないし、誰か引き取ってくれないかって」
じっくりマッチングすれば、敷地も広いし上物もまだ新しいから、それなりの価格になるのだろうが、現店主は治療費のこともありすぐ現金化したいとの意向で、だからこその破格の条件なのだそうだ。今なら不動産会社も挟まないので、仲介手数料も不要だと。
「いい話なんだよぉ。俺、マスターのこと応援してるからさ。真っ先にここへ持ってきた」
ということは、貴広が断れば、すぐ次の店へ話を持っていくだろう。熟考している時間はないということだ。
良平が静かに酒井に水を出した。酒井は「あ、俺にもブレンドくれる?」とオーダーを入れてくれた。こういうところで、酒井の応援は口先だけでないことが分かる。
都会からやってきた貴広を受け入れ、歓迎し、応援してくれるのは、移民によって成立した北海道の風土によるものだけではない。祖父虎之介が、みなに愛されていたからだ。
「あのマスターの孫だから」。これが常連さんたち、取引先の営業さんたちの心なのだ。ありがたいことだ。
そして一方、不思議な感じもする。貴広自身は、祖父の性格や気配り、笑顔などをほとんど覚えていない。それほど接点の薄い肉親から、こんな恩恵を受けることになろうとは。
「いずれにせよ、詳しい条件を聞いてからじゃないと。二つ返事で『じゃあ、移ります』とはなりませんよ」
「だよねー。じゃちょっと、生臭いお金の話」
酒井は貴広を手招きした。貴広はそちらへ行く前に、やかんの中を確認している良平に耳打ちした。良平は目を上げて貴広にうなずいてみせ、素直にやかんに水を足した。
通り過ぎる車のライトが、マホガニーのドアに光る。しばらくすると夕暮れだ。
良平は酒井にブレンドを出し、コーヒーの入ったポットを持って客席を回った。
「コーヒーのお代わりいかがですか? 今日は特別にマスターからのサービスです」
常連さんたちは口々に「ありがとう」とカップを差し出した。そこへ丁寧に注ぎ足してやりながら、良平はテーブルを回った。最後、サヤカのテーブルで良平は足を止めた。
「コーヒー飲める? 飲めるなら、新しいカップに入れてくるけど」
サヤカは細い顎をグッと反らして言い返した。
「飲めます。いただくわ」
貴広が酒井の持ってきた物件情報を聞いている間、良平はサヤカの話を聞いてやればいいのかもしれない。が、良平はそうしなかった。
サヤカは憮然としている。ようやく自分の欲しいものの話ができると思ったところでの、酒井の来訪だったからだろう。見事に出鼻をくじかれた格好だ。
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