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「ママ、眠い」
「肩にもたれていいわよ」
「苦しくない?」
「大丈夫よ」
妊娠中のつわりがひどい時期は、幸樹を甘えさせてあげられなかったのを申し訳ないと思っていた。
「きっと、疲れたのよ」
「……うん」
幸樹が小学一年生になって初めて挑んだピアノの発表会の帰りだった。極度の緊張から解放された安堵からだろう。バスの揺れも相まってすぐに寝息を立て始めた。そのあどけない寝顔に何度も救われて来た。汗で張り付いた前髪を指で整えると、うるさそうにうめいた。それすらも愛しかった。
夕方五時を過ぎた日曜日のバスは、ほぼ席が埋まっている。安定期に入ったとはいえ、長丁場の発表会は思っていた以上にしんどかった。
「大丈夫ですか?」
「えっ?」
その相手を見て、ひどく狼狽えてしまった。
「坪井さん? 坪井菜央さんじゃない? 小学校が一緒だった林田夕夏よ。覚えてる?」
彼女を忘れるはずがない。いや、忘れたい存在ではあった。
「ひ、久しぶり」
「今ね、実家に用があって帰省してるのよ」
「そうなの」
その時、幸樹が不機嫌そうに目を擦りながら起きてしまった。
「着いた?」
「ごめん、まだなの」
「ごめんなさいね。起こしちゃった?」
夕夏が声のトーンを落として幸樹に言った。
「お詫びに頂き物なんだけど……あっ、あげても大丈夫? チョコレート菓子なんだけど」
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